「いじめ」に向かい合った記録を巡って

 昨日、キコサマが久方ぶりに研究室に顔を出した。強い緊張感に包まれているようだ。これからの学習・研究の方向性について相談をしたいという。メモ・文書化したものを元にして後日詳細に検討し合うことにし、時の話題などで問題関心を整理するよう勧めた。「大津事件」に話題が登ったので、かつてぼくが取り組んだ「いじめ」問題の実践レポート「「いじめ」からの脱出」を渡した。読み終え、直ぐその場で感想を書いてくれた。以下がそれ。推敲が一切無いのでまさに走り書きである。感情がほとばしっていると言い換えようか。
***
 この記録は、いじめを受けている中学生の和夫が、カウンセラーの立場としての先生からの援助を受けながら、中学に潜むいじめの事実と向き合っていくさまが記録されていた。
 この記録は客観的かつ当事者的な視点で、このいじめの事実を捉えたものであった。この記録の中で、私が一番問題意識を感じた点は、やはり教師の対応であった。いじめの事実が第三者の立場から要請されているにもかかわらず、向き合おうとしない他学年担当の教師。勤務先の学校という教育現場でいじめがあってるにもかかわらず、取り合おうとしない姿勢には憤りを感じたが、それ以上に担任の対応にはあきれて開いた口が塞がらなかった。まず、いじめが目の前で起こっていても見て見ぬふり。事実上の口言葉での注意を促しただけで指導したつもりになっている。第三者がいじめの事実を当事者(被害者)の生の声を聞いた上で助言しようとしてもシャットアウト。まるで聞く耳を持たない。
 被害者の生徒が母親と芝居を打って(担任を)家に招き入れて発した言葉「君が動くのを待っていたんだよ。」この件には失笑するしかなかった。担任とは教育者の立場であり、「動く力の無い生徒」に対して「動く力」を与えて、までは行かずとも、「動く力」を育む糸口を与えるのが教育者である教師の仕事では無いのか、という疑問を感じずにはいられなかった。
 私自身が教師を志す身であるからこそ、このような教師の対応の不誠実さにはどうしても目が行ってしまう。
 視点を教師の対応からこの記録の中にある「いじめ」全体に目を向けて考えてみる。
 このいじめは、「無意識化されたいじめ」であることが前提条件であった。この記録にとどまらず、実際、学校現場で行われているいじめの大半以上は、この無意識化されたいじめであると思う。先日の大津のいじめにしろ、10年前の加藤君のいじめ・自殺事件でも、加害者にはいじめの意識、加害者の意識が欠落しており、遊びの一種となっている点に注目したい。
 遊びで他者の心をもてあそぶことはあってはならない道徳的規範、他者の人格無視した行為である。だから、学校という教育現場では、この道徳意識を普段から育んでいかなければならないが、このような意識は一朝一夕で育まれるものではない。
 この記録で川口先生がなさっていたように、生徒全員を一人の人間として捉え、生徒同士、生徒・教師が「人間的関係」を育まなければならない。「言うは易く行うは難し」、教師は全ての生徒を真正面として向き合わなければならないが、校務に追われ、自分の仕事を終わらせることが関の山である。しかし、HRで一人一人の顔、表情を見る、個人面談など生徒と向き合う機会を積極的に作り、生徒の学級という集団から一目置かれる存在では無く、「教師も含めて一学級」、学校の構成員・統率者・教育者として人間的に生徒を知り、向き合う必要があると感じた。
***
◎昼頃、丸善のWさん、来室。
◎女子学生、就職が決まったとの報告。