クラムシーにおけるセガン生誕200周年記念シンポジウム 案内文

エドゥアール・セガン(1812−1880)
「私が試みようとしたことはほとんど報われることがなかったのです」(フランスの劇作家コルネイユ(1606−84)からの引用−エドゥアール・セガンは著作『医療検温と人の体温』(1871)で引例している。)

 エドゥアール・セガンは(ニエヴル県)クラムシーの出身である。1812年にオー・バ・デュ・プティ・マルシェ通りに生まれた。その地域圏で長く続く家柄の出自であった。父と叔父は医師であった。セガンはオーセールで中等教育の学習の第一歩を踏み出し、続いてパリのリセ・サン=ルイで終えている。
 1830年に法学部に学籍登録をしているが、これといった信念に基づくものではなかったと思われる。実際、そのわけもほとんど分かっていないが、1837年に、父の友人でありアヴェロンの野生児の教育者として著名な、医師ジャン・イタールの好意の下で、一人のイディオの子どもの教育に取りかかった。この取り組みは著作『H氏へ・・・私が14ヶ月間行ってきたことの要約』(1839)に纏められた。1839年には、ゲルサンとエスキロルによる一編の好意的な報告が、(後に、)セガンに、セヴル通りの不治者救済院の障害のある子どものクラスでその方法を当てはめる道を拓いたのである(※)。一方で、ピガール通り6に私設を開いた。1842年にビセートルの門が彼に開かれるまでに、セガン教育は大医学者の間で知られるようになる。しかし、改革者は決して受け入れられることはなく、逆に、無視、嫉みに見舞われた。それ故セガンは1843年に職場を離れるが、罷免されたのかそれとも辞職したのか?
 セガンの職業経験はいずれも緻密な作品の対象となっている。とりわけ『遅れた子どもとイディオの子どもの教育の理論と実践』(1842)と『イディオと他の遅れた子ども...のモラル・トレートメント、衛生および教育』(1843)はよく知られている。
 1850年、彼はアメリカ合衆国に渡った。その地では彼の方法がよく知られ高く評価されていた。彼はその地で大きな成功を収めた。オハイオ州で10年過ごした後ニューヨークに身を落ち着けた。1861年にはニューヨーク市立大学に職を得た(※※)。
 1862年アメリカ医学協会のメンバーに任ぜられた。当時彼は検温に関心を強めており、1876年に著した著作『医療検温と人の体温』で、医療への導入の優位性を強く論じている。
 最後に、エドゥアール・セガンは1873年のウイーン国際博覧会アメリカ教育代表者として派遣された。その際彼はヨーロッパの様々な教育制度を関心を強めて調査している。
 1880年ニューヨークで死去。
 セガンには謎がある。セガンのアメリカ時代の同業者は、彼のことを、「女性のように優しくて包み込むような」人物として描いているかと思えば、時には、ペン先から綴り出される文体には、寛大さがなく、気むずかしい態度が示されることもあるという。セガンは、フランスで医学の研究を始めたとも、サン=シモニアンのグループの一員であったとも、芸術批評をしていたとも言われる。だが、合衆国に向かったというその訳は誰も指摘していない。彼の業績が認められなかったからか、それとも政治的な理由からか。
 これは確かなこと、セガンはクラムシーを、郷里を決して忘れたのではない、ということ。そして、セガン方法の精神は今日もなお、教育の実際の技術に生き続けている、それが特殊教育か否かに関わらず、ということ。

(※)Édouard SEGUIN, Théorieet pratique de l’Éducation des enfants arriérrés et idiots, Leçons aux jeunes idiots de l’hospice des Incurables. 1842. p. 48.
‘Messieurs, votre confiance m’a appelé à la fois aux incurables homes et femmes, et je n’ai pu m’occuper que des premiers; j’ai douté, non de ma method, mais de mes forces, et je les ai con centrées sur un seul point.’
○ l’hospice des Incurables homes 〜rue faubourg Saint-martin
○ l’hospice des Incurables femmes 〜rue de Sèvres
 以上から、案内文の記述違いだと判断する。

(※※)ニューヨーク市立大学で医学博士号を得たと先行研究には綴られている。事実、彼の肩書きにはM.D.と付けられている。このことから「職を得た」という訳語ではなく「業績が認められた」とすべきだろうか。