「報告」最終原案

2012年10月28日 フランス共和国クラムシーにおけるセガン生誕200周年記念シンポジウム報告原稿
日本におけるOnézime-Édouard SÉGUIN
 皆様、こんにちは。東洋の東端の国日本からやって参りました川口幸宏です。日本の首都・東京にある学習院大学という私立大学で中等学校教員の養成を担当しております。学問の専門領域は教育学です。セガン生誕200周年記念事業であるシンポジウムに参加し、報告できることを幸せに思っております。ただ、私は、中度聴覚障害者であるということもあり、フランス語の会話能力を有しておりませんので、皆様へのプレゼンテーション、皆様方とのコミュニケーションの全てを通訳のお力をいただいて行わなければなりません。通訳者は****************が務めてくださいます。よろしくお願いします。
1.まえがき
 ところで、現在の日本には、唯一のセガン研究の専門団体「日本セガン研究会」(la Société Japonaise des Recherches sur SÉGUIN)がある。同研究会は本年1月20日に、すなわちセガンが200年前この世に生まれ出た2012年1月20日に、「セガン生誕200周年記念号」と題して『セガン研究報』の通巻第8号を刊行した。(1)アメリカ時代のセガン研究の課題(村山拓帝京平成大学講師)、(2)モンテッソーリセガン教具に関する比較研究(竹田康子、大阪大学大学院)、(3)Onézime-Édouard SÉGUINの半生に関わる実証的研究(川口幸宏、学習院大学教授)、その他を内容としており、日本におけるセガン研究の新しい到達が示されている。
2.セガン研究とイディオ教育実践の開拓
 我が日本において、特殊教育研究とりわけイディオ教育研究あるいはその実践に携わる人々の間では セガンの名とその業績は避けて通ることができない重要な位置づけがなされてきた。19世紀の終わり頃から今日に至るまで、特殊教育研究者・実践家等によって、セガンに関連する著作物が数多く公表されてきている。それだけではなく、特殊教育における専門的基礎教養にも位置づけられ、教育全般に関わる人物辞典にも紹介されている。
 以下、日本の100余年間に見られるセガン研究の特徴を3期に分けて紹介したい。
第I期 セガン研究の開拓とイディオ教育実践施設の創設
 まず、キリスト教日本人伝道者内村鑑三 (1861〜1939)がアメリカ合衆国カリフォニア州での1884年〜1885年の体験をもとに発表した論稿において、欧米のイディオ教育論をセガンの名とともに日本に紹介したのが第一歩である。さらに、櫻井鴎村(1872〜1929)がセガンを「イディオ教育の開祖」と位置づけ略伝を綴っている。
 続いて、「日本のイディオ教育・福祉の父」と称される石井亮一 (1867〜1937)、その夫人で「日本のイディオ教育・福祉の母」と称される石井筆子(1861〜1944)の諸活動、ならびに、1891年に石井夫妻によって設立され今日も運営がなされている社団法人・滝乃川学園の福祉・教育が、セガンの理論と実践に強い影響を受けた活動を紹介しなければならない。とりわけ石井亮一の業績を簡略に紹介する。
 石井のイディオとその教育・福祉に関わる研究は、彼の死後の1940年にまとめられた『石井亮一全集』(全4巻)でその真髄を見ることができるが、石井は、セガンの業績を高く評価し、セガンの実践はヨーロッパ各地のイディオ教育を起こさせる引き金となり、セガンの1846年著書『イディオの精神療法、衛生、教育』(Traitement moral, hygiène et éducation des idiots et des autres enfants arriérés au retardés dans développement, agités de movements involantaires, débiles, muets non-sourds, begues etc.. Chez J. B. Baillière, Paris, 1846. )をイディオ教育の宝典として尊重した。石井は、セガンの学説を体系的に説明し継承する必要がある、と強調している。
 石井は、1896年にアメリカ合衆国を訪問した際、ペンシルヴァニア州のイディオの子どものための生理学学校を訪問。 エルジー・ミード・セガン夫人と面談をしている。 石井はセガン教具をセガン夫人から譲り受け、日本に持ち帰り、滝乃川学園での実践に適用した。日本で初めてセガン方式が導入されたのである。
 関連して申し上げたいのは、残念ながらセガン教具は、学園が火災に見舞われた際に、家屋と共に消失してしまったということである。セガン教具は復元されることなく今日に至っている。このようなこともあるのだろう、近年、セガン教具に対する研究的関心が強められてきている。ちなみに川口は2009年にパリ医学史博物館を訪問し、ブルヌヴィル・コーナーに常設展示されている教具類を撮影し、日本の関係者等に写真提供をした。我が日本では初めてのことである。
 話を戻します。先に紹介した石井亮一よりやや遅れて訪米し(1916〜1918)、イディオ教育・福祉の理論と実践に学ぶことによってEducational treatmentを確立し、また1919年に学校法人藤倉学園を創設した川田貞治郎の名と業績も忘れることができない。
 こうした先駆的な研究と実践とが、日本において、エドゥアール・セガンの名と業績を広げ、イディオ教育と福祉の発展に貢献している。
第II期 セガン研究の本格化〜1960年代以降
 石井夫妻等の先駆的な業績は、それ自体が苦難に満ちた足跡であるけれども日本におけるイディオ教育と福祉の法的・行政的整備拡充の運動展開に貢献することになるが、それは同時に、日本における特殊教育研究の本格的展開の呼び水ともなった。埼玉大学東京学芸大学奈良教育大学筑波大学はじめ多くの大学の特殊教育研究に関わる講座を開く教授、彼らが運営するゼミナール・研究会によって、セガン研究が進められた。それらは、日本における前近代後期以降の障害者福祉の思想や実践の調査・発掘、欧米諸国の特殊教育・障害者福祉に関わる研究・実践の翻訳紹介という大きなうねりとして現れた。それらは、日本教育学会や日本特殊教育学会といった我が国の学的最高権威の舞台に、研究成果として持ち込まれた。1968年10月に開催された日本教育学会第27回大会で行った清水寛、津曲祐二、松矢勝宏の共同発表「セガン研究(一)」が先駆けとなっている。その時の論題は、セガン研究の現代的意義(清水寛)、セガンの生涯と業績(津曲祐二)、セガンの思想及び教育観の背景(松矢勝宏)であったことを付け加えておきたい。
 こうした流れの中で、Idiocy: and its treatment by the physiological method. William Wood & Co, New York, 1866.が1963年に邦訳出版されて以降今日に至るまで、セガンの著作のほぼすべての邦訳出版が進められている。また、M. タルボット(アメリカ合衆国)女史の博士論文、すなわち、ÉDOUARD SEGUIN: A Study of AN EDUCATIONAL APPROACH TO THE TREATMENT OF MENTAL DEFECTIVE CHILDREN, 1963. や、1980年にクラムシーで開催されたセガン没後100周年記念行事などを媒介として 、我が日本におけるセガン研究の本格化が加速された。とりわけ、1981年、日本特殊教育学会第17回大会ではセガン没後100周年を記念してシンポジウム「セガン―その思想と実践」が行われた。この時の論題は、(1)セガンの「イディオ教育論」から学ぶこと(松矢): (2)初期セガンの「イディオ」教育観の検討(温田): (3)セガンの「生理学的教育」と教育事例(清水)、であった。
 これらの動向を集大成したのが清水寛編集の『セガン 知的障害教育・福祉の源流―研究と大学における教育実践(原著仏文タイトル:Séguin−l'origine de l'éducation et du bien-être pour les handicaps mentaux la recherché, et l'éducation au seine de l'Université de Saitama 1972-81)』(全4巻、東京、日本図書センター、2004年.)である。同書の執筆者が60数名という数字を見ても、この期の日本におけるセガン研究に向かう熱意を伺うことができる。日本社会事業史学会は、2005年に、清水と同書に対して「文献資料賞」を授賞している。なお 同書はクラムシー に寄贈されている。また、 M. Bernard BARDIN 前クラムシー市長が PREFACEを寄稿しておられる。
 この第II期のセガン研究を推進した者としては、教育学者、心理学者、特殊教育学者たちの名を挙げることができる。前記の清水、松矢、津曲の他、中野善達、中村満紀男、星野常夫等の名前は特筆されるべきである。ただ、それらの多くは欧米でのセガン研究の援用であり、オリジナルな史料発掘とそれに基づく史料評価はほとんど見ることができない。史実誤認や史料誤訳が定説化されているという状況も見られる。その意味では、セガン研究が我が日本で活発に行われたけれども、それらの到達は不十分であったと言わざるを得ない。
 典型的な例を挙げれば、これはセガンがイディオ教育を展開した場に関わってのことだが、セガンはラ・サルペトリエール救済院l'hospice de la Salpêtorièreとビセートル救済院l'hospice Bicêtreとでイディオ教育を行ったというのが我が国での定説とされてきた。そして今でもそのように主張する有力なセガン研究者がいる。この定説の源となっているのは、先に挙げたM.タルボット女史の博士論文である。しかしながら、セガンがイディオ教育を開拓し実践した場は、セガン自身が1846年著書で語っているところに従えば、「イディオの教育の最初の取り組みは、エスキロルの指導の下でイタールの下絵を元に作り上げ、続いて、パリ、ピガール通りのつましい施設で、ただ一人で生徒達と実践をした。さらに、不治者救済院の内奥のことなど知らなかったが、ある励ましを得て道を拓くに至った。云々」(pp.323-324 <要旨>)(原文:Soit que l’on considère ses premiers efforts, cette remise à la fonte des ébauches d'Itard sous la direction d'Esquirol, soit que l’on se reporte aux pratiques de l'auteur privé d'appui, travaillant seul avec ses élèves dans son modeste établissement de la rue Pigale; soit qu’on le voie poussé par une main dont il ignorait le secret à l'hospice des Incurables, où un rapport decisif constata les progress qu'il avait, ・・・)とある。
 この記述の後にビセートル救済院での不遇な状況が綴られているから、タルボット女史はセガンが記述する不治者救済院l'hospice des Incurablesを「ラ・サルペトリエール救済院l'hospice de la Salpêtorière」と特定したのであろうか。我が日本のセガン研究はこれに忠実に従ってきた次第である。しかしながら、この時代、l'hospice des Incurablesは、パリに男女それぞれ用の2施設あった。つまり、男子施設は右岸のrue de faubourg Saint-Martinに、女子施設は左岸のrue de Sevrèsにあった。セガンは1842年に出した『遅れた子どもとイディオの教育の理論と実践 不治者救済院のイディオの子どもへの訓練Théorie et pratique de l'éducation des enfants arriérés et idiots Leçons aux jeunes idiots de l'hospice des Incurables』のp.48において、「男女の不治者救済院に呼ばれたけれども、私は男子の方でしか実践をしなかった。」旨を書いているから、rue de Sevrèsの女子不治者救済院で実践をしたのではないことは確かである。事実、彼が教えた男子のみの青少年10人の記録が残されている。
第III期 セガン研究の新たな展開〜21世紀に入って
 21世紀に入って、日本におけるセガン研究の新しい展開を見るようになる。その端緒を切り開いたのが、藤井力夫(元北海道教育大学教授) の研究と福祉施設創設である。
藤井は心理学研究の立場からセガンの「生理学的教育」とりわけその実践と理論の成立過程に着目し、渡仏し、フィールドワークと関係史料の発掘ならびに分析的研究を繰り返し、その成果を日本特殊教育学会や北海道教育大学の各紀要に発表している。その精緻な研究によって、 セガンのイディオ教育論の構造、ならびにその成立過程が明確にされ、それと同時に、現代のイディオ教育・福祉に直接応用できることを理解した。彼は、大学教授の職をなげうって、福祉施設を運営し、セガン方式に基づくイディオ教育と福祉の実践に力を注いでいる。私は彼のことを「現代日本セガン」と呼び、尊敬している。
 あと一つは、川口幸宏によるセガン研究である。川口は特殊教育研究ではなく近代初等教育史研究をプロパーとしている。フランスを対象とした研究では「フレネ教育」や「パリ・コミューンLa Commune de Paris 1871の初等教育制度改革」に関する研究がある。これらに貫いている研究方法がセガン研究にも導入され、徹底したフィールドワーク・史資料発掘とその評価による実証主義に貫かれているのが特徴である。川口は、セガンの前半生の人生行路を訪ね歩いている。生誕の地Clamecy、父祖の地Coulanges-sur-Yonne、母の出生地でありセガンが幼少年期を過ごしたAuxxere、社会活動やイディオ教育開発の場Parisに脚を運び、それぞれの地のセガンが定めた住居地、学んだ学園、働いた場所を訪問した。もっとも、当時を偲ぶよすがなど、ほとんどないのではあるが。
 川口のセガン研究は、セガンのイディオ教育実践・論の成立過程を彼の主体形成の側面からとらえ直そうとするものであり、日本におけるセガン研究の中では、独自的なものである。その成果は、『イディオ教育の開拓者セガン−孤立から社会化への探究』(東京、新日本出版社。2010)や『セガン研究のための栞(しおり)』(2010)、「旅路−Onézime-Édouard SÉGUIN その生誕からフランスを去るまでの光景」(2012)などにまとめられている。また、川口はそれらの著作において、セガンの初期著作の幾編かの邦訳を試みている 。
 川口のセガン研究が日本のセガン研究に対して新たに提供したことは、1.1848年の2月革命の頃まで(渡米まで)のセガンの半生をセガン自身の叙述に丹念に従いながら解きほぐしたこと、2.その際、可能な限り、クラムシー・コミューン、クーランジュ・コミューン、オーセール・コミューン、パリ国立古文書館、AP/HPで閲覧可能な公文書等の史資料で検証したこと、3.2月革命とセガンとの関わりを示す史料発掘に努めたこと−例えば、フランス国立図書館に蔵されている「Club des droits du travailleur」の見出しの元でなされた’Appel aux Travailleurs.’のポスターは、これまでのどのような研究書、資料集でも見ることができていない−等である。
 川口のセガン研究に関する著作に対しては、『フランス教育学会紀要』第23号(2011年)で「言葉をもたない『イディオ』と呼ばれる子どもたちが、どのようにして内面を『表現』できるまでに、導くことができたのか。セガンという一青年教師の歩み、その必然性を明確にさせないではおけない一(教育学)研究者のすごさを感じる」(藤井力夫による書評より)との高い評価が与えられた。
3.おわりに
 我が日本におけるセガン研究の歩みは、排除・阻害され続けてきたイディオを社会に解放し共生者としての権利を持つ人々としての正当な位置に据えるための熾烈な戦いと実践可能な方法の開拓の創意工夫があったことを、明らかにしている。つまり、É. セガンの「遺産」は、我が日本の教育・福祉の制度・実践改革に大きな寄与をしているということができる。それにとどまらず、川口によって明らかにされたことは、セガンは、社会の不平等と管理統制とに対する強い疑問から導かれた具体的行動−1830年革命・1848年革命への参加−直接にせよ周辺であったにせよ−、サン-シモン主義者としての政治、社会、芸術などの諸活動―を起こしている、ことである。彼のイディオ教育開拓はそれらの活動の総集約であったということができるが、川口はそれらの諸活動を可能な限り史資料的に明らかにしている。
 セガンのフランス時代の実像−必ずしも全容ではないが−が我が日本で初めて明らかにされたという点で、清水寛によって、川口の研究は今後のセガン研究の礎石を置いたと評されている。

謝辞 MM. Yves PELICIER et Gui THUILLIERによる以下のセガン研究(著書再版を含む)は、今日の日本におけるセガン研究の灯台としてすばらしい導きをしてくださっていることに、謝意を表するものである。
1. Edouard Séguin(1812-1880) , Economica, Paris. 1980.
2. Edouard Séguin(1812-1880) nouveaux documents, CNDP, Nevers, 1981.
3. Un pionnier de la psychiatrie de l'enfant―Edouard Séguin(1812-1880), Comité d’histoire de la Sécurité sociale, Paris. 1996. 
4.ÉDOUARD SÉGUIN, Traitement moral, hygiène et éducation des idiots(1846), Comité d'histoire de la Sécurité sociale, Paris. 1997.