「いじめ」の「温床」はここにもある

 私の授業論より。
「私は、「いじめ」は時間が解決してくれないと思います。被害者は、「きっと時間が解決してくれる」とは思っていないと思います。「次はどんないじめがあるのだろう、どうやって耐えればいいのだろう」と、そればかり考えていると思います。私が考える解決法は、「自分(被害者)が変わること」だと思います。もし、自分(被害者)が変われば、周りの見方もきっと変わり、楽しい学校生活が送れるのではないかと思います。」(無署名)
〔川口特註〕何で変わらなければならないのか、何をどう変わらなければならないのか、果たして変わりうるのか。様々な報告書・実践記録を見て、「被害者が変わる」べきだと説明できるのか。「変わる」ことで本当にいじめがなくなるのか、その保障はどこにあるのか、また、「変わる」ことが「被害者」に求められているということは、「加害者」及び「おはやし組」には何ら問題がないという認識だと理解できる。果たして「指導」論として成立するのでしょうか?
 余計な付言になるかもしれませんが、思春期女子の中で多く見られる「シカト」「仲間外し」「グループ」の問題解決を試みている場面で必ず出されるのが、「シカトされている子が変わればシカトがなくなる」というものです。「シカト」は標的が次から次へと移り変わる関係性の変容行為(ゲーム)ですから、「変わろうが変わるまいが」、標的を求めてさまよう残虐ゲームであることには変わりがありません。つまり、いじめがなくなることはない、ということです。適切な「指導」が求められるゆえんですね。「おまえが悪い」(アイツチョウムカツク!)と言われても「何がどう悪いのか」さっぱり分からないのが「シカト」です。
 書いた人が実名ではないのでこの発言を書き手の立場から補完することは不可能です。本来ならディスカッションの素材としてふさわしくないのですが(問題提起者が自己弁明や反論等ができない、つまり綴った真意までは理解できず、読み手は文字面のみで理解する―理解しているふりをする―しかないという意味)、読み手が読み手としての理解(敢えて言えば憶測)に基づいて意見を交流するしかありません。そのつもりでディスカッションをお願いします。教育実践の立場からいいますと、「匿名的環境こそがいじめを生む」のです。ただし、「被害者」の人権にかかわる重大な問題であるという認識は持って下さい。