勝手に垣根を跳び越えて走り回るへたり羊たち

 「暴力いじめ」にかかわる教育相談事例を取り上げて、相談内容の進展ストーリーを場面で区切り、その場面場面を議論し、生徒指導の課題と方法とを「発見」する授業3クラス。
 「暴力いじめ」がいつしか「いじめ」一般議論になり、「逃げろ」「闘え」の二分法の議論になり、果ては「施設に身を移す」という提言が生まれる。
 これらが「まじめ」に議論されているわけだから、ぼくは怖くてたまらない。素材の持つ価値など一切関係なく、彼らの「観念」で全て操作されてしまっているのだから。「ねえ、3人にぼこぼこに3ヶ月殴られ続けて、傷やあざが絶えない子どもがどうやって闘うの?その秘訣教えてよ。」と言わざるを得ないし、「この空間は劇画空間だね。」と皮肉らざるを得ない。「逃げろって言うけれど、どこへどうやって逃げるの?逃げると暴力いじめから逃れられるって保障どこにあるの?第一、教育を受ける権利という国民の基本権の放棄をさせていいの?」と少し、論理的に突っ込まざるを得ない。
 ここまでが前回までの授業の学生たちの意識状況。今日は、そういう意識を強制的にでも変革させなければならないと、言葉を厳しくあれこれ指摘する。やがて、日常的に議論からそれてむちゃくちゃにしてかかる者たちが髪の毛のグルーミングが始まる。寝たふりが始まる。これはまあ、見事なものだ。自身が「破壊されるかもしれない」という恐怖の表れ。「自己変革」という発達権・学習権が保障されないで、だたただ「学校」という義務通路を安全に通過することだけを考えてきた連中にこういうのが多い。そういう自分が、自分とは異なる人生行路を持っている子ども達に向かい合うことができるのだろうか、と疑問に思わないのだろうか。思わないのだろうなぁ。