ありがたいではないか

 女子大のKさんからメッセージ・カードが届けられた。
 「この度は、川口先生のセガン研究がフランスで高く評価されましたことを、心よりお祝い申し上げます。川口先生がいかに多くのご苦労を伴いながら、このご研究を貫き通されてきたのかということを思う時、私は改めて先生のことを深く尊敬いたします。毎年のように史料的実証性を求めて遠いフランスへ渡られた日々は、今回の喜ばしい結果へと全て繋がっていたのですね。先生の真実を御追求される上での勇気や、その御志に対する情熱が、今までの研究では明かされなかった部分に新たな光を当てられたのですから、それは大きな貢献と成果であり、まことに素晴らしいことです。川口先生、本当に本当におめでとうございます!!私のこの喜びは川口先生とともにあります。」
 教員養成課程に所属する身は、学科制、講座制に所属する身とは、学生指導のためのゼミナールを持たないか、持つかの違いである。自分の進める学問をコアにして少人数の学生と一緒になって、文献を購読したり、調査に赴いたり、ディスカッションをしたりの繰り返しができるのが学科・講座制、教員養成課程(教職課程)ではそれらがない。極端な言い方だと誹りを受けることになるかも知れないが、教職課程ではおのれの専門性を前面に打ち出して学生指導に当たることはまず無い。ぼくが大学に籍を置く研究者として進めてきた研究は、日本近代教育史(大正期、昭和前期。初等教育、教育方法思想、教育実践)、アメリカの教育方法改革運動であるWhole Language、フランスの教育方法改革であり世界的な運動となっているフレネ教育、フランス近代教育史(パリ・コミューン下の教育改革)、そして知的障害教育の開拓者オネジム=エドゥアール・セガンの半生(自立史)等である。これらを担当する授業で語るのはほんの「単語」程度である。自主ゼミでは時間をもらってそれぞれを語った。ただし、年度ごとに語る主題と素材は異なる。
 Kさんは、こうした授業内でのぼくの「語り」に耳を傾け、たまさか研究室に足を運んだ時に詳しく聞く、という立場であった。昨年から今年にかけてはセガン生誕200周年記念ということもあり、「セガン」にかんする語りは多かったと思う。そうした中からぼくの研究的な「立場」に共感してくださったのだから、本当にありがたいと思う。
 「セガン」後、ぼくは「セガン」で掴み得た研究方法論を駆使しながら、新しい研究課題に進みゆく。Kさんに、このことをお話ししたいものだと思う。