クロード・ティリエ

朝から「いかだ師」の史料探索および読み込み。今日の焦点は何といってもクロード・ティリエ。彼のおかげで「いかだ師」の別のイメージも持つことになりそうだ。クロード・ティリエについて、2005年3月4日の日記に次のように綴っていた。
「午後4時頃、クラムシーが生んだ大衆小説作家クロード・ティリエ(1801-1844)記念会(Association des Amis de Claude TILLIER)会長氏による、クロード・ティリエの簡単な生涯についての説明を得る。ティリエの生家はセガンの生家のすぐ近くである。ティリエについての説明は、19世紀前半のクラムシーにおける教育状況についての理解を深めることができるだろうというクラムシー学芸協会のご配慮による。ティリエはリセ就学の後パリで補助教員を2年間務めた後、クラムシーに戻り私立学校を開設。すぐ兵役に取られスペイン戦争に従軍。肺をやられ7年間の義務兵役を終えることなく5年間で退役。再び私立学校を開設。ここでの教育成果が認められコレージュの校長に迎えられる。カントンの教育監督委員会委員を務める。反体制的であったため罷免される。三度私立学校を開設するが、アナーキストのシンボルである黒旗を掲げるなどのためブルジョアジーから強い反感を買い、経営難に陥り、独力で新聞'la Association'を発行、同新聞に大衆小説を掲載し、評判を呼ぶ。しかし、同紙は抑圧を受け発行が困難となった。病気のため1844年没。」
 ティリエは新聞以外にパンフレットを発行していた。その第1号が「Un flotteur à la majorité du Conseil municipal de Clamecy」この標題からは、いかだ師が市会議員を誕生させるほどに財力と政治力とを持ったことを推測できるのだが、果たして本当のところは?まさに大きな「発見」。ティリエのこのエッセイを丹念に読みたい。
○上記について。クラムシー市議会によって「薪材筏の発明者、ジャン・ルーヴ」胸像がヨンヌ川に架かる橋の橋梁に建てられたのが1838年。これの推進に大きな力があったのがクラムシーが生んだ代議士デュパン。しかし、ティリエの編集したパンフレット第1号で、、ジャン・ルーヴをもって薪材いかだの発明者だとすることは非常に疑わしい、との論説文が掲載されている。まさに、市議会が創りあげた筏師像だ、というわけである。この論説の100年後、ジャン・ルーヴ像は橋梁から撤去され、いかだ師立像が建てられた。我が国の有力なセガン研究者のお一人であるある先生は、ジャン・ルーヴが薪材筏の発明者であるというのは間違いだとロマン・ロランが指摘している、と鬼の首を取ったような勢いで「清水ら」批判を書いておられるが、なに、ロマン・ロランより遙か昔にそのことを指摘する人がいた、ちゃんと活字にしていた、そしてその人はアナキストであり、大衆文学作家であったが故に、あまり評価されて来なかっただけだ、ということも押さえておかなければなるまい。