障害児教育の出発

 「教育基礎」。教室から学生の数がほとんど減っていかない。これからの時期、学生たち地獄だなあ、と思い、聞くのがつらい、いやだ、むかつく等々のためただ椅子に座って時を過ごしている者達に、見切り判断を自主的にしていただく策略・・・、などとアホなことを脳内で考えた徹夜明けの今朝。いやいや、「障害」の問題はじつは「人間の本質」の問題。社会の質の問題。「当たり前」であることをよしとしてきた人類史の中で「当たり前」でない存在は、隠し、排除し、抹殺し、囲い込み、という対象とされ続けてきた。中でもしつこく「当たり前でない」とみなされてきたのが、身体障害と精神障害、そして知的障害。障害を持つ人も教育が可能、つまり障害者は学習可能の存在だと明らかにされた時から、「当たり前」の枠組みと質とが広がり深まる。その兆しと少しの進歩を見せた障害児教育の出発をテーマとした講義。ぼくに言わせれば、障害者を医者による「治療」と称する人体実験対象の手から離したとたん、障害者は「人」になった。19世紀前半のこと。イタールとセガン。駆け足で語った。半分は寝てたかな。朝だもの、眠いよね-。で、来週から君たち、教室外で自学自習しましょうね。その方が精神的にも身体的にも健康だし、何よりも本来の大学らしさというものなのだから。
 昼休み、史学科4年のM君が来室。M君は昨年の道徳教育の研究で大いに助けて貰った。その時以来の友情と言うべきか。来年4月からの進路が具体的に決まったという報告をいただいた。賑やかな祝いの会をしましょう。互いの連絡はFB上でと、早速「友達」となりました。
 午後は教室会議、教授会。その後、「介護等体験」に関わる話し合い。円満解決へと大いに進む。よかったよかった。今夜は寝るぞ-。