久しぶりの終日授業

 今年度から始まった「教職実践演習」。4人の教職課程専任教員がそれぞれの専門性を生かして、学生たちに、「教職とは何か」を深く発展的に考えさせる。ぼくにとっては最初で最後の授業。今日,そして来週の15,16,17。この計4日間で、今年度教育実習を終えたすべての学生にぼくの「語り」を素材とした演習を行う。今日の学生の声より。FBに投書した一篇。

☆40人の学生を前にして、大きくは「教育とは何か」、具体的には「机って何だろう」というようなばかっ話しをした。授業も佳境というか終盤を迎えたころ、「机という四角四面に向かい合っていれば人生が決まると思い込まさせるのが学校なのかもしれない。一人、連れ、グループ、色々な人の形・姿があるのに、ほら、ぼくたちは固定され、変容性を持たない机にむかわされている。そんなことが人生の一大事になってしまっているし、それを先導するのが教師という仕事なのだからなぁ」としゃべったら、一人の女子学生の両の目から涙が流れていた。あの涙は何を意味するのか、自分の教育受難史の想起か、それとも自己発見史の想起か・・・。
授業が終わってくだんの女子学生が教卓のところに来て、紙片を渡してくれた。そこに書かれていたこと、退職への思いがけないプレゼントをいただいた気持ちだ。
「生徒指導のお授業の時にはじめて川口先生のお話を伺い、それまで、中・高で悩んでいたことなど、胸につっかえていたものがスーと楽になっていくようで、と同時に勝手に涙が出ていました。先生の言葉は大人数にもかかわらず、大人数の中の私の心に響き、先生の言葉の持つ力のすごさを本当に感じました。」
 宗教家にて第三の道を歩もうかしら、なんて欲望は少しも持ちません。わし、あれ嫌いやし
★「ワシ、あれ嫌いやし」とかいた「あれ」というのは特定の人物を指している。本当は「あの人のようなやり方」と言うべきかもしれない。