「あとがき」リライト完成

あとがき
 本書は、二〇〇〇年以降、フランス一九世紀教育史を対象として調査研究を進めてきた成果である。とりわけターゲットとして史料収集などフィールドワークを繰り返したのは、白痴教育の成立過程と世俗教育の成立過程とである。前者では主としてオネジム=エドゥアール・セガンという個人を、後者では主としてパリ・コミューンという政治的共同体を採り上げた。両者共に、時の精神的支配勢力・権力に果敢に挑戦し、後の時代の教育理念や制度・教育実践の礎を築いたことで、高く評価される。しかし、ともに、その時その社会においては、まさに玉砕という表現がふさわしいほどの結末となる厳しい戦いを必要とした。具体的に言えば、前者はフランス精神医学界と、後者はカトリック教会という宗教的権威界と、戦った。いずれも、現実の教育を実質支配していたという点で共通しており、教育の自律・自立・自治にとっては障害となっていたと評することができる。本書の主題を「教育のための戦い」とした所以である。
「時代の興奮」という言い方がある。我が研究(アカデミズム)の世界も無縁ではない。「時代の興奮」によってそれまで静かに眠っていた多くの史資料が目を覚まし、それによって幾多の研究が族生した。こうして、研究は深化・発展し、人類の知的財産が質的にも量的にも蓄積されていく。
 本書で素材としたオネジム=エドゥアール・セガンもパリ・コミューンも例外ではない。前者はセガン没後一〇〇年(一九八〇年)、後者は勃発(そして終息)一〇〇年(一九七一年)を大きなメルクマールとして、世界的な規模で研究が行われ、その成果が競いあわれた。メルクマールとされたそれぞれの数字は「時代の興奮」を演出するツールであったが、それは本質ではないだろう。前者は障害者の人権を社会制度として確たるものにすべきだという時代的な声の反映であったし、後者は東西両陣営の覇権争いの東側の勝利を求める声の反映であった。前者は、これを契機に、障害者の人権保障がすべての人の人権保障の前進へと歩みを強めていくことになった。一方後者は、皮肉にも、東側の崩壊現象を生み出す波にのまれることになった。
 しかしながら、私は、この種の「時代の興奮」とは異なった立ち位置にあった。いや、今でもそうだと断言する。障害児教育とその歴史のプロパーでもないし、近代政治史のプロパーでもないからである。だから、「時代の興奮に遅れてきた者」というレッテル貼りにも強い抵抗を覚える。「何を今更」とのささやきが背中から聞こえるのだが、私にとってのこれらの研究は「今更」という言辞とは無縁であると確信している。
 かつて研究を手がけようとする時に、先輩や同輩から「研究の意義と任務を明らかにせよ」と厳しい指導や助言を受けた。「時代の興奮」の渦巻きを論理的に捉える能力に劣っている私には、この種の指導や助言はたいそう厳しいものであった。本書で論述したセガン研究にしろパリ・コミューン研究にしろ、この種の指導・助言とはまったく無縁の立ち位置で進めたこともあり、私にとって「研究とはこんなに楽しいことなのか」という感情を生み出してもくれた。だから「何を今更」という背中に聞こえる声も、私を萎縮させる声としては届いていない。
 私の「セガン研究」と「パリ・コミューン研究」とは、それぞれ異なる偶然事を源として出発している。だが、研究物としてまとめようと意志を固めた数年前では、両者が、一九世紀半ば数一〇年の間に出来したフランス近代教育史を特徴づける共通した歴史事象であるとの確信を得るに到っていた。その確信の一端が前著『知的障害(イディオ)教育の開拓者セガン〜孤立から社会化への探究』(新日本出版社、二〇一〇年)という成果として誕生した。しかし、オネジム=エドゥアール・セガンという人物に関する既存の研究はすべからく誤謬に満ちており、セガンをその誤謬から解き放してやりたいという思いの強さを先んじさせることになった。したがって、セガンによる知的障害教育開発過程の中で提起されていた教育そのものの自立という課題については,その多くを前著から除外せざるを得なかった。そしてその除外課題は本書第一部に復権させている。
 「セガン研究」の始点を得たのは二〇〇三年であり、本格的な研究は二〇〇五年から進めたが、「パリ・コミューン研究」の始点を得たのはそれよりも早く二〇〇〇年のことであった。勤務する学校法人学習院安倍能成記念教育基金学術研究助成金による支援を受けて、二〇〇〇年度、海外研修の機会に恵まれた。研修の地をフランス共和国と定め、一年間のパリ生活を送った。このおりに、かつての「時代の興奮」の中で掘り起こされたパリ・コミューン関係の史資料と出会ったことがきっかけである。パリ市内の古書店を回りながらパリ・コミューン関係の当事史料を目にした時の踊る胸を、何と形容すればいいだろうか。百数十年の時を隔てて、今、我が手の内にある、という感慨。パリは動乱に巻き込まれては再建するという史実を持つ大都市である。破壊と建設とが繰り返される中で生き残った史料との出会いは、深い感慨が起こる、よくぞ我が許へ、と。勢いを得て、我が手元の史料の確かさを確認する目的を持ってパリ歴史図書館に足を運び、図書カードをめくり関係書類・史料を閲覧する。その繰り返し。さらに街歩きの際にも、史資料から得た情報を建築物の壁面に探す。そのほとんどは見いだすことができないのだが、それでも、当時のカトリック教会とパリ・コミューンとの教育攻防の象徴である学校がなお存続していることに気づくと、あたかも当時の光景が目の前に現れたかのごとく、妄想する。この妄想を紙面上で再現したいと願い、その作業を進めるようになったのは,一年間の研修生活を終えてからのことであった。
 パリ・コミューンを歴史事象として対象化する際、「労働の解放の実現されうべき、ついに発見された政治形態」(マルクス)として捉えるのが王道なのであろう。そしてなぜ失敗に終わったのか、今日に継承すべき課題は何か、という視点を定めることこそ、王道たる所以であろう。それは時として、「パリ・コミューンは無謬である」というような俗説を導き出してもいる。その当否を問うことはここではしないが、教育学研究者の私としては、パリ・コミューンがその時代に課題として提示した教育とはその時代にとってどのような意味を持っていたのか、ということに強い関心を寄せる。教育の根っこにあるべき「子ども」観はどうであったのだろうか、ということの関心と言い換えても過言ではない。
 だが、後の時代、パリ・コミューンを、パリ・コミューンのまっすぐな継承とその発展、すなわち社会主義社会建設の先駆的な営みであったと評する立場の者によって綴られた「子ども」観に私は与することができない。たとえば、『パリ・コミューン史』(淡徳三郎著、法政大学出版局、一九七一年)は次のように記述する。
「タンプル街のあるバリケードヴェルサイユ軍の手に落ちた時、守っていた戦士が全部銃殺されることになった。その中に一人だけ子供がいた。彼は将校に向かって三分間の猶予を乞うた、「向かいの家にお母さんが住んでいるんです、僕の記念(形見)に銀時計を置いてきたいんです。」さすがの将校も心を動かされて、行かしてやった、心の中ではもう子供が帰ってこないことを期待しながら。しかし三分経ったら子供は帰ってきた、そして舗道のところへ走っていって、すでに殺されて屍となっている戦友たちと並んで、壁に背を向けたのである。」
 これは、社会主義活動家の詩人シャルル・ヴェルケが一九〇八年に発表した「小さなコミュナル」という詩を引用して叙述している、ムーリス・ドマンジュ『パリ・コミューンの人たちとその物語』を下敷きにして改作したものであるが、第二部で記述したように、そもそも、ヴェルケは一八七一年六月に発表されたヴィクトル・ユゴーの原詩(詩集『恐ろしき年々』の一節)を元にして改作したものである。改作に次ぐ改作は「時代の興奮」によって原作の主題を大きく変えてしまい、ユゴーの言う「子どもだけは無実なのです」という「子ども」観を、「勇敢な戦士」像に改作、否、創作してしまっているのである。もっとも、ユゴーの原詩をご都合主義的に部分引用するパリ・コミューン叙述は、ヴェルケだけではないことを指摘しておきたい。
 結局、私は、非力を顧みず、当事史料に寄りかかることに重きを置く研究スタイルを採り入れた。これはセガン研究にも本格的に導入されることになる。つまり、私は、当事史料と直接対面することによって、当時の実像を知ろうとする立場を強固に持ったということである。本書に引用・参考文献を一覧として載せたが、とりわけ邦文のそれがないのも、この理由によっている。邦文の文献には、オリジナル史料に基づく研究が少なく、海外の研究の翻案であったり、誤読であったりすることが多いということが,文献一覧に加えていない理由とさせている。当該分野の研究を「時代の興奮」の中で開拓された意気込みは高く評価したいが、今や、開拓時代ではないことを強調したい。
 思えば本書の主題は、私が研究者として自立するために手がけた戦前生活綴方研究の中で、素材の一つとして採り上げた人物上田庄三郎の主要著作の標題『教育のための戦』(啓文社、一九三八年)と同じなのである。上田もまた、彼の、さらにまた彼らの、同時代の展開、進展の前に立ちはだかりつぶしにかかる何かとの戦いに、命の火を燃やしていた。
 結びとして、二〇〇〇年以来、一貫して史料収集、聞き取り、調査などの場で誠心誠意通訳の任を果たして下さった学習院大学仏文科出身の瓦林亜希子氏には、心から御礼申し上げる次第である。また、本書編集担当者三好咲氏は、学習院大学在学中、私の担当する授業の履修者の一人であった。氏が、二〇〇九年のある時、「私はどうしても先生の本を出版したい」との言葉を口にされた。それがどういうきっかけだったのか、その場面を思い起こすことができないけれど、今こうして、一冊の本を作る協同作業者同士となっている。まことにありがたいことではないか。
私は教師・研究者冥利に尽きる幸せの中で、今、生きている。
二〇一四年二月  川口幸宏 識」