誤解

今回の脳梗塞治療入院に伴って、お見舞いの言葉を多くいただいた。きちんと返礼できていないという無礼をお許し願いたいが、どうも病気に対する誤解や曲解を持って見舞いの言葉を下さっている方が少なくない。
一つは、ぼくが死に直面したという誤解である。もちろん誰でもいつでも死を背負いながら生きているのだけれども、今回のぼくは生命消失の危機に瀕したという事実はまったくない。従って意識は明瞭。ただ、意識は日常なのに身体の左が意識の指示に全く呼応しないという未経験の世界に陥った。しばしば、ヒラケーゴマ、と左手に向かって呪文を唱え、念力を送るのだけれども、ぼくは鬼であっても魔男ではなかった。
次なる誤解ないしは曲解は、「持ち前の不屈の魂で危機を乗り越えろ」という応援歌。ぼくの信条は嫌になったらやめる、である。不屈の魂などかけらも持っていない。どうもリハビリそのものに対する誤解から来ているとしか思えない。しばしば、リハビリがあたかも難行苦行であるかの如く情報化されており(事実、体罰を行使した事例などが報道されることがある)、それによって作られた観念をぼくにあてはめている。ぼくはリハビリを楽しんでいますなどと情報発信すると、先生のその頑張りに励まされます、などの言葉が返される。お役にたったのだったら嬉しいが、人様を励ますなんて、思いもしないこと。本当に楽しんでいるのだ。毎日毎日、自分の稼動性の量と質の変化が実感できるのははじめての経験だから。辛くも苦しくもない。先生の声かけと力添えが、リハビリをを楽しませてくれる。
三つ目に、さからうな、という忠告である。そりゃあ、「三色ペンを用意しなさい!」などという理不尽な命令が出されたり、点滴に関わる事故をクライアントのせいにするなどの言動に対してはふ従順かつ攻撃的になる。正義はこちらにあるから。弱い立場をさらに弱い立場に追い込むようなやからには逆らいます。だけど、昨日の調査では、コミュニケーション良好、とある。不正義がない場合は、「とてもおだやかで、人気者」なのが、ぼくの実像なのである(笑)。