後退したがる気持ちと伴走しながら

 今朝も6時起床。えいやっ、との掛け声で布団に起き上がるが、直後、身体が崩れる。慌てて手で支え、倒れるのを防ごうとしたが、手は何の役にも立たない。ぐにゃっと身体がへし曲がり頭から布団の縁に落ちていく。「たのむ、怪我をしないでくれ!」と瞬時祈るが、容赦なく頭と顔側面を文机の脚にぶつけてしまった。コブさえできなかったから幸いだったというべきだろう。身体を、書棚に健康な右手を添えて、立て起こし、布団に正座して、しばし自省した。この身体はこれからの人生でそのままつきあっていかねばならないのか、いや、加齢による衰えは急速に進むだろうから、もっともっと御しがたい醜態をさらすことになるだろう…。自称唯物論者のぼくからすれば「下部構造」のありようが「上部構想」のありようを規定するの定石に従い、ぐにゃぐにゃな身体(下部構造)は精神(上部構造)に強い影響を与え、心も「へし曲がって」しまった今朝であった。
 さてと、こんな朝。今日はどう過ごすのか。天気はいいが寒い。外に出る気はまったく起きない。布団に再び潜るか…。ふと、ネット友のYoshikoiさんから昨夜いただいたメッセージが頭をよぎった。コピペであるが以下に転記する。
「青春とは人生のある期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心,こういう様相を青春と言うのだ。年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。歳月は皮膚のしわを増すが情熱を失う時に精神はしぼむ。苦悶や、狐疑、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年月の如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。曰く「驚異えの愛慕心」空にひらめく星晨、その輝きにも似たる事物や思想の対する欽迎、事に處する剛毅な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。
 人は信念と共に若く 人は自信と共に若く希望ある限り若く 疑惑と共に老ゆるう恐怖と共に老ゆる 失望と共に老い朽ちる大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、偉力と霊感を受ける限り人の若さは失われない。これらの霊感が絶え、悲歎の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至ればこの時にこそ人は全くに老いて神の憐れみを乞う他はなくなる。」
 このまま「老い」るか?「情熱を失い時に精神はしぼむ」を由とするのか?肉体に生きるのではなく、精神に生きんとするか?十分に生きてきたではないか?だが生ききってきたか?… とにかく、今一度、畳の上に立ち上がってみよう。

 窓を開け、冷たい空気を部屋いっぱいに充満させていく内に、「散歩は大丈夫だろうか。」という言葉が口に出た。杖つき散歩の途中で身体がへし曲がりはしないか、という不安がわいてきた。いつしかぼくの心は散歩を求めるように変化しているのだ。休息できるところがあるとそれを頼りに甘えてしまう。よし、チャレンジだ!駅までの距離ほどの散歩道を定め、午前7時、玄関を出た。途中で郵便局がある。そして白山神社がある。生活所用と「祈り」とという目標物をコースに入れ込んで、出発。やはり、信号抜け道の車が次々と通りすぎていく。本当に危険きわまりない運転もある。ゴミ出しにいそしむ近在の人々の生活の姿とも出会う。「おはようございます」と声かけをするが、返礼はない。それほどの「都市化」した人倫関係の「ご近所」である。が、雑木林からは、ウグイスの誇り高い鳴き声がしっかりと聞こえてくる。
 郵便局を過ぎた所からは急な坂道。バス通りである。皮肉なことにこの道を走る車の姿は見当たらない。ほとんどが狭い生活道に抜けていく。コツンコツンと杖の音を響かせながら、坂道を登る。少しつらい。まだ無理かなあ。しかし腰を下ろすところはないから、がんばれ!と我が肉体に声をかける。道を登りきったところで生活道に左折。100メートルほど進んで突き当たると白山神社だ。境内の桜が花びらを吹雪のように散らし、もう春は終わりますよ、としゃべっている。「Sさんの健康が戻りますように。」と神妙に頭を垂れて後、桜吹雪の中を我が家へと歩を進めた。
 帰宅7時半。ちょうど30分の無休憩杖つき歩行であった。この調子だと、駅まで、具体的には、東武新柏駅までは行き着くことができそうだ。起き抜けの「へし曲がり」からくる不安感を抱え込みながら。