2011年1月8日付中野光先生への書簡ーセガン研究の到達

中野光先生
 誠にご無沙汰いたしております。川口幸宏です。
 最新の御高著、『大正自由教育研究の軌跡―人間ペスタロッチ―に支えられて』(学文社刊)を贈呈くださり、まことにありがとうございました。心より御礼申し上げます。御高著の落手は、新年1月2日のことでありました。すぐに「やや長いまえがき」を拝読し、落手御礼の葉書をしたため、投函いたしました。その後巻末に至るまで没頭して読み続け、読了は1月4日の夕刻であります。
 先生のご研究の深淵さに改めて驚嘆し、各ページ毎に、私自身のあまりの教養の狭さ、哲学の貧困さ、それらはとりもなおさず、私自身の教育論の脆弱さを意味しておりますが、そのようなことを、イヤというほどに思い知りました。
 先生は、学校教師としての晩年のペスタロッチーに、共感を覚えておられます。私はといえば、そういう実像ペスタロッチーを描こうともせず、観念でしか捉えることができていません。そうは言っても、ほんの少しの紙幅しか、ドイツ語原文で読んでおらないのですけれども。彼の認識論的実践論的な教育(生活)の意味を、今後も考え続けていく必要があると、先生の御著を読み進めながら、感じました。
 第二部以降は、なんと言っても、「学習権宣言」と「大正自由教育」との、論理的実践的関係性に心を奪われました。というより、これまた、私自身における欠落の発見、と申し上げるべきかと思います。「学習権宣言」を知らないとか、「大正自由教育」を知らないとかという問題ではなく、判ったふりをして、今日に到ったということの、惨めな自分像の発見です。「読むこと」「書くこと」は、少なくはありますが、やってきたつもりです。ですが、それらを、「自分自身の歴史を綴る」道具や武器にはしてきていない、イヤそれは言い過ぎだ、との煩悶・葛藤を繰り返しながら、とどのつまり、その煩悶・葛藤が出来するのは、「質問し、分析する」こと、「想像し、創造する」ことを、「自分自身の世界を読み」取ることに、つなぎ得ていない自身の発見があるように思えます。
 そうは申しつつも、2003年から進めて参りました「セガン研究」は、ひょっとして、私のこうした壁を、乗り越えようとしたのではないか、との思いもあります。
 拙著『知的障害(イディオ)教育の開拓者セガン―孤立から社会化への探究』を新日本出版社から出していただいたのは、昨年3月末のことでした。出版社を通じて中野先生に献本させていただきましたが、先生からいただいたお便りに、目が見えないから読めない、音読されれば内容を知ることができる、旨が記されておりました。もとより承知していることではありましたが、とりあえず、「セガン研究」を一つの形にした、という報告をさせていただくことが、当時の私の精一杯の思いでした。
 拙著を献呈させていただいてから、随分と月日が経ちましたが、先生からお送りいただいた御高著を、詳細に通読したあと、先生に、私の「セガン研究」の課題、方法、到達とについて、是非お伝えしたいという思いになりましたので、ここに、「セガン研究の課題と到達、そして方法」と題するレポートを報告させていただきます。音読し、カセットテープに録音いたしました。本状に同封してございます。なお、書名の「知的障害」の部分には、「イディオ」、と、カタカナでルビを振っております。イディオはフランス語で、語源はギリシャ語のイディオス。「孤立状態」また「孤立状態の人」を意味しております。拙著は、直接的に、障害児教育・障害児教育史を対象化したのではなく、大きくは、イディオである日常から自身を解き放ち、社会共同体の一員として、主体的に生きることの意味・意義・課題を、イディオ教育の傑人、セガンの生育史と、その業績開拓史に即して綴った研究であると自負し、できあがり原稿には、「孤立から社会化へ―イディオ教育の開拓者セガンの半生―」とのタイトルを付けました。しかし、諸般の事情から、出版タイトルは版元の提案を受け入れたものとなった次第です。
以下、レポートをさせていただきます。
 研究の歩みを三つの時期に区分し、それぞれの特徴を述べます。先生が既にご存じの事柄と多少重なると思いますが、お許し下さい。
1.2003年5月、埼玉大学勤務時代の同僚であった清水寛先生から、「自身の退職記念事業の一つとして、セガン研究書の出版企画があるが、セガンの人生前半期であり、イディオ教育を開拓したフランス時代について、その社会活動等には、史資料的に不明なことが多い、それを解明するための、史料調査・検索等の協力を願えないか。」とのご依頼をいただいたことが、私のセガン研究への第一歩となります。
 語学力は言うに及ばず、研究者として非力の私が、どれほどのことができるか、不安と戸惑いが大きかったのですが、お受けしました。そしてそれらは、2004年6月に刊行になった清水寛編著『セガン 知的障害教育・福祉の源流―研究と大学教育の実践』(全4巻、日本図書センター)への、編集協力、寄稿等の具体的なかかわりへと結実します。
このように始まり、形となった資料調査協力、編集協力等の参加の前後を、私のセガン研究の第一期とします。私自身が「セガン」をものにする、という意識はほとんどない時期です。清水先生からご依頼いただいた作業は、『セガン 知的障害教育・福祉の源流―研究と大学教育の実践』が刊行されたことによって、終わりにすることができました。しかしながら、19世紀前半期のフランス社会を、ほんの少し垣間見ただけでも、清水寛先生をはじめとするセガン研究者先輩諸氏の、取り入れてきた研究方法と到達とに、強い違和感を覚えておりました。それで、同書刊行後の2004年10月末、2005年3月に渡仏し、セガン生誕の地クラムシー、少年期コレージュ生活を送ったと思われたオーセール、やがて社会活動やイディオ教育を展開するパリで、資史料調査やフィールドワークに取りかかりました。中野先生の今回の御著書に綴られている、西口敏治さんの御論稿に倣えば、「行って、見て、聞いて、調べる」という「歴史研究の常識」を、遅ればせながら、取り入れた次第です。もちろん私は、フランス語に関して、聴覚を駆使して理解し、コミュニケーションを取ることがまったくできませんので、先生のお弟子さんでもある瓦林亜希子君に機関折衝や通訳を、仕事として、依頼しました。
 この期の研究成果は、
(1)戸籍名は、オネジム=エドゥアールをファーストネームとし、セガンをファミリーネームとすること、
(2)母親の名前がマルグリット・ユザンヌであり、出自が、オーセールのブルジョアジーであること。ただし、母親あるいは母系つまり母親の系譜が、セガンの人格形成にどのような役割を果たしたのかは、この時点では不明です。
(3)セガンは、中世 地方学問都市として栄えたオーセールに、中世期末に創設された、コレージュ、ジャック・アミヨ校で学んだことがあること、同校は古典教育、理数教育に力を入れていました。
(4)パリに上ってからは特級コレージュ、サン=ルイに就学し、成績が優秀であると表彰されたこと、同校は、いわゆる超エリート校群、グランド・エコールへの進学準備のための名門校です。
(5)その後は、グランド・エコールとは別コースの、ナポレオンI世によって設立された、実務教育を専らとするパリ法学部に、11年間の在籍記録があること、ただし修了試験を受けている形跡はありません。
(6)立憲王政から第2共和政への変革を生み出した、1848年2月革命に関わる政治ポスターの発見によって、共和政体への強い願いを読み取ることができる、宣言文の複製版を入手することができたと共に、そこに、エドゥアール・セガンの名を見ることができたこと。
 以上の(1)〜(6)を、セガン研究における新しい発見として、位置づけることができました。
 その一方で、セガンのイディオ教育に関わる具体には、ほとんど進むことができませんでした。それでも、従来の研究では、セガンが実践し、高い評価を受けた場は「サルペトルエール院」である、という定説になっておりましたが、「サルペトリエール院」、当時の正式名称「女子養老院(俗称ラ・サルペトリエール救済院)」で、セガンは実践をしていないことに気付きました。その理由は、まず、同救済院は、女子専門の機関であること、次に、セガンが実践の記録に残している子どもは、男子青少年であること、さらには、セガン自身は「ラ・サルペトリエール」の名を一切書き残していないこと、などです。
 セガンの実践の場として、「サルペトリエール院」の名を知らしめた源は、アメリカの障害児教育史研究者マーブル・タルボット女史の博士論文でありますが、それがまったく検証されることなく引用され続けてきた、という日米の研究史があります。「サルペトリエール院」に替わる、セガンが深くコミットした機関は、「フォブール・サン=マルタン通り男子不治者救済院」であることを、見いだしました。セガンが実践をした場で、唯一当時の面影を残しているところです。この機関は、軍事病院に転用されたあと、現在は国際交流センターとして、利活用されています。写真を添えてその存在を明らかにしたのは、私が撮影を依頼した、瓦林亜希子君が初めてであろうと思います。
 単に、機関名称の間違いとして済ませることも可能でしたが、フランス社会での医療福祉行政が、男女混合収容であったところから男女別収容へと改められるなど、19世紀前半期の、医療・福祉行政の改革過程と直結している問題であるだけに、看過することができないと思い、こだわりました。
 こうした検証から得たことは、我が国のセガ研究史は「アメリカ発」である、ということでした。何故に「フランス発」に依拠してこなかったのか、と疑念に思うことが多々ありました。「アメリカ発」のセガン研究によれば、セガンがイディオ教育に成功をしたその最初の時から、彼の実践・理論を学ぼうとする、世界的な動向が見られ、フランス政府は、セガンを、フランスのイディオの子どもたちの教育のために、「サルペトリエール院」内に設置された学校に招聘した、というのです。だとすれば、セガンは、フランスで研究史的に尊重されていていいはずです。ところが、フランス社会では、セガンの業績の再評価の気運は、幾度か高まったこともありますが、研究史としては、かろうじて、ティェイエという社会史学者と、今は亡き精神科医ペリシエとの共同作業によって、セガンの業績を掘り起こす、資史料収集の作業が見られる、などが散見できる程度で、研究的評価はほとんど為されていない、と言っても過言ではない状況です。これはいったいどういうことなのだろう、と考えた次第です。
 こうした気づきから、大げさではなく、セガン研究は一から始めなければならない、という課題意識を持つに到りました。何せ、戸籍名でさえ明らかにされてこなかったのですから。それと、これは母子家庭で育った私なりのこだわりなのでしょうけれど、セガンの生育史環境に「母親」が登場してこないことは、やはり残念なことでした。手書き古文書である、セガンの出生証明書を解読し、母親の名前を読み取った時は、安堵した次第です。変な表現ですが、他に言い表し方が思いつきません。しかし、セガンの人格形成に果たしたであろう母親ならびに母系については、収集検討すべき史料のあてさえ、思いつきませんでした。
2.第2期は、2005年7月3日の、中野先生にご講演をしていただきました、「清水寛先生の『セガン 知的障害教育・福祉の源流―研究と大学教育の実践』の出版と、社会事業史学会文献資料賞受賞とをお祝いする会」を契機とし、2006年2月末にパリの路上で吐下血し倒れた日までで、日米仏のセガン研究の、資史料検証の活動です。
 セガンが幼少期、父親の『エミール』流の薫陶を受け、それが彼のイディオ教育の理論的実践的根源になっている、という研究的通説に対しては、強い違和感を持ち続けましたが、それを論証するに足りる資史料との出会いはありませんでした。ただ、『エミール』のフランス社会での受容状況―先駆性ではなく大衆性のそれ―について、具体的には、セガン家のような、社会的地位が高く資産もある家庭の子育ての具体、についての知見を得るべく、史書を紐解きました。『エミール』が、フランス社会の子育て・教育指針の書として、一般的に受容されるようになったのは、19世紀後半期、それまでは、普通の庶民家庭でさえ、乳母に子育てを委ねるというのが常態であった、と理解しました。私は、諸々の研究とは反対に、「セガン家はフランス社会、ヨーロッパ社会にありきたりの、貴族主義の伝統を重んじるブルジョア家族であった」、との強い「仮説」にこだわりました。
 その理由は、クラムシーという地域性、つまり、地場産業としては、パリで消費されるペチカ用の薪材の生産と、それを筏に組みパリに運ぶ、筏流しという特有の移送方法や、パリの児童保護施設に救済された「捨て子」を預かり育てる、養親という産業ぐらいしかない、きわめて貧困さを持つ地域、つまり、貧しいの一言で済む極零細農業の他には、パリを唯一の「財政窓口」にするしか存立しえない地域性、ということを史書を通して知るにつけ、その「仮説」を棄てることができなかったのです。セガン家が、とりわけ父親が医学博士として、クラムシーで、医業を開くために移住してきた、「新住民」であることが明らかになったことも、「仮説」を強めさせました。もし『エミール』主義で子育てをするとしたら、それは、クラムシーという地域性・歴史性・文化性を、破壊することにつながらないのだろうか、と。セガンが綴っているエッセイ「筏師たち」の中にも描かれているとおり、地場産業は、老いも若きも、村も近郊も、全てを挙げて労働参加することによって、かろうじて維持されていたのですから、母親を子育てに委ねよ、というプロパガンダなどは適うべくもないことだと、私は考えた次第です。このあたりは、私が母子家庭の育ちをしているという経験が、「思い込み」を抱えさせたのかもしれません。
 また、セガン自身が、その教育論の根底に、サン=シモン主義哲学があると、強調しているにも関わらず、先行研究は、何故、その哲学内容を十分に明らかにし、セガンの実践との対応を試みないのか、非常に不満を覚えていました。セガンの言葉を借りれば、18世紀の啓蒙主義哲学ではイディオは教育されることがなかった、19世紀の哲学すなわちサン=シモン主義哲学こそが、イディオの教育を可能にし、人権という福音を与えたのだ、ということなのです。やはり、サン=シモン主義についての文献調査が求められると気づき、多少の文献を得ました。その収集過程で、サン=シモン主義は、新しい社会形態の創造、すなわち社会が共有する生産と労働、並びにキリスト教信仰との、共生社会の創造を目指す哲学を持ち、政治、社会、文化、医療、教育、宗教活動を積極的にしたのであり、エンゲルスによってサン=シモン主義に性格づけられた、「空想的社会主義」という日本語訳の持つニュアンスで、それを裁断してはならないことを知りました。それと共に、19世紀前半期のフランス社会の、混沌と光明とを実証する裁判記録等を入手し、その中に、数多くの被疑者としてのサン=シモン主義者の名前を見いだしますが、セガンの名をも発見するに到ります。つまり、サン=シモン主義者セガンが社会変革のために立ち上がり、弾圧され抑圧を受けていた、という事実との出会いでありました。
 ところで、これらの文献検証の中で、私の内面に強く沸き起こってきた研究課題意識があります。イディオ児の組織的教育という、前人未踏の業績成果を上げ、今日の障害児教育運動や実践につながる、セガンの生育史―すなわち、セガンの人生への歩みに隠されたパッションのようなものの解明の意識、と言った方がいいかもしれません。セガンが自身の人生を切り開いた、その主体性を明らかにしたい、という強い願いが、沸き起こりました。つまり、19世紀前半期に、イディオの子どもたちに教育を施し、確実な成果を挙げた人物を研究することの、私にとっての核心は、その世界の先駆性の証明や、実践理論構造の解明なのではなく、その世界を人生行路に選び取った、「青年期をどう生きるか」という問いを絡めて捉えなおすところに、 私のオリジナリティがあるべきである、ということになります。それは、「イディオ」を唯一のキーワードとしたセガン研究から抜け出て、19世紀前半期に、近代化を急ぐフランス社会の、矛盾と動乱の嵐に包まれる中で、「己れはいかに生きるべきか」を探究する、一人の青年像の構築という問題です。資産と社会的地位とに恵まれた家庭で生まれながらも、「右手奇形にして身体虚弱」という、徴兵検査結果が示す身体状況を抱えて生きていた、オネジム=エドゥアール・セガンその人を対象化したい、と願ったのでした。
 この「気づき」を後押ししたのは、セガンの戸籍名と発表論文署名(サイン)との関係性です。セガンは、フランス時代に使用したサインに、「オネジム」あるいはその略称「O」を使用していません。オネジム=エドゥアールというファーストネームの前綴りが「オネジム」であり、それは、父親ジャック=オネジム・セガンが息子に譲り渡した、彼のファーストネームの後綴りです。このように、親子を繋ぐ証である、名前綴りを署名公表していないという事実を残しているセガンの内面に、何があったのか。セガン自身が語っていないのですから、あくまでも推論でしかないのですが、セガンは、父子関係を真正面から捉えようとしない人生を送り続けたのだろう、ということです。ここには、いわば、近代的な「自立」の問題が潜んでいるように思われたのでした。この課題は、拙著に直接かつ具体的に綴ることはしませんでしたが、問題意識として抱えています。
 これらの文献研究の日々の中、旅先のパリで大量出血という症状を呼ぶことになりました。「セガン研究はやめなさい」という幻聴を聞きながら、静養生活をしばらく送ることになります。
3.第3期は、2007年8月のパリでの、イディオ教育開発史に関わる調査の着手から、2009年の、サバティカルを利用した総合調査研究まで、となります。研究を結ぶ上で、一定のまとまりを得ました。
 この期を、幾つかの柱に分け、記します。この柱分けは、研究の歩みの時系列には従いません。
 第1の柱は、生育史に関わります。
 セガンがルソー『エミール』流の子育てを受けた、という研究史の常識から得られるのは、セガンは近代家族的な育ち方、すなわち誕生して以降も、両親の下で、とりわけ母親の直接養育の下で、乳幼児期、少年期を経て、青年期となって家庭から自立していく、という生育史をイメージします。フランスにおける近代家族制度は、ナポレオンI世によって生み出されます。セガンが誕生したのはナポレオン帝政の末期だったとは言え、それほど速やかに近代家族化が進んだ、と考えるべきではありません。とくに、ブルジョアジーや元貴族の家庭における子育てに関わっては、乳母、里親のシステムが色濃く残っていた時代であります。ついでながら、セガンの父親もまた、乳母、里親の下で育てられたことを、申し述べておきます。
 このことをセガンに即して明らかにする手がかりは、セガンの代表著作である、『イディオなどの精神療法、衛生ならびに教育』(1846年出版、以降『1846年著書』とします。)に込められておりました。セガンは同書で、「それぞれの年齢に応じて手ほどきをしてくれる、乳母の子守歌、祖母の小話、家庭教師の課業(レッスン)」というように、前近代的な子育て・教育のシステムを綴っています。またある箇所では、「祖母」を「里親」と置き換えています。そして「祖母の家に自分の部屋を持っていた」とも書いています。「乳母」「里親」「家庭教師」というのは、近世から近代半ばにかけての、フランス貴族そしてブルジョア階級に一般的な子育て様式ですが、セガンがそれに普遍性を与えていることや、「祖母」という言葉に見られるように、自身の経験と二重写しにしているようでもあるこれらの記述が、大層気になるところでした。
 2009年6月末に行った、オーセールでの母方の戸籍調査によって、自室を持っていたという祖母の家とは、母方のそれであることを特定することが出来、間違いなくセガンは、因習的な子育て習慣の中に置かれていた、と確信することになります。事のついでに、セガンの母方は、母親の先代、つまりセガンの母方の祖父が、サルディーニア王国での政争に敗れた亡命移民の一族に属していたこと、セガンより10歳年長の母方いとこが、オーセールにおけるサン=シモン主義者であったこと、また、そのいとこは、1848年の2月革命の直後、革命派として、オーセールの市長の座についています。そのいとこの家は祖母の家のほぼ真向かいにありました。
 また、同時期に行った、セガンの父方の戸籍調査で、セガンの父方祖父は、フランス革命前までは、クラムシーの近くの、クーランジュ・シュール・ヨンヌという小村に住み、木材商を営む豪商で、政治的にも有力者でした。革命直後に行われた選挙で、政治の舞台から追放されています。
 このような家系調査から言えば、「『エミール』流儀の子育て方式を取り入れていたことに見られるように、進取的気概のある父親の愛情に満ちて育てられたからこそ、セガンがイディオ教育の道を開拓することにつながった」 という従来の理解は、否定されなければなりませんし、少年期に到るまでの育ちのプロセスを明らかにするためには、母系をこそ、そして舞台としてはクラムシーではなくオーセールをこそ、もっと掘り起こしていかなければならないだろうと思った次第です。
 続いて第2の柱です。サン=シモン主義に関わります。
 セガンが、自らの実践・理論のバックボーンにあるものを、サン=シモンだと明示したのは、アメリカに移住してからのことです。フランス時代の著述には、サン=シモンの名は登場しません。それが何故のことなのかは分かりませんが、ただ、彼の社会活動やイディオ教育の意義を、彼自身の言葉によって跡づけてみれば、それらがサン=シモン主義によっていたことは、明白です。『1846年著書』で、彼は、次のように言います。「キリスト教への信仰によって支えられていた」自らが、「神の前での、人類の統一と平等という優れた伝統を守ろう」とした、と。そしてまた、その具体的な活動が、一方では政治闘争、文化・芸術闘争へ、一方では 「科学が『おまえたちには望みがない。』と、常に断じてきた被造物の境遇を救うこと」へと、自らを導いた、と。後者が、次の柱で述べるイディオの教育であり、前者が、これまで資史料を整えて綴られてはこなかった、社会改革者としてのセガンの姿です。
 社会改革に参加したサン=シモン主義者セガン像につながる史実では、1830年7月革命と呼ばれる、復古王政を打倒し、共和政を打ち立てようとする政治闘争に、セガンは、弱冠18歳の身で、街頭戦に参加していたことが判りました。この革命によって成立したのは、共和政ではなく、「共和政に囲まれた」との冠のつく立憲王政でしたが、その王政によって、セガンは、武勲を称えられています。その後、この王政が強い反動化に進むようになり、それに対抗して、王政転覆の策動が、様々に巡らされます。セガンもまた、その組織体の一つで、非常に過激な秘密結社・家族協会に、加わっています。家族協会は、生存の権利、無償教育の権利、政治参加の権利などの、近代的人権の実現を高らかに謳っています。家族協会参加故に、セガンは逮捕されるという経験を、二度にわたって味わっています。さらにセガンは、『ラ・プレス』という新しく創刊された日刊新聞に、芸術批評論文を数編寄稿しており、その現物コピーを入手することが出来ました。また、1848年2月革命に参加したことは先に触れた通りです。同じく2月革命に関わって、「労働者の権利クラブ」を発信名者とし、錠前工などの下級職人の他、セガンのサインの入った、「労働者へのアピール」と題するポスターの発見は、私の今回の研究をもっとも特徴付けるものとなっています。
 最後に、第3の柱です。セガンの「イディオ教育」の開発に関わる問題です。少々長くなりますが、お許し下さい。
(1) セガンの第一の師匠とされているジャン=マルク=ガスパル・イタールと、セガンとの、直接関係性を論証・実証する史料の探索。結局は、セガンの論述にしか両者の関係性を見いだし得ないことを理解しました。
(2) セガンによる、イタールの「アヴェロンの野生児」実践評価に、史実との食い違いが見られることの気づき。それは、セガンがイタール実践を、「イディオであるビクトールに対するものであるにもかかわらず、イタールは、ビクトールをイディオではないとみなしつづけた。結局、イタールは、ビクトールはイディオだと理解するようになり、棄てるようにして手元から離し、救済院に収容した。ビクトールはそこで悲惨な状態で人生を終えた」と評価していることと、大きく関係すること。イタールは1827年の著書で、「ビクトール実践は、イディオかそうでないかを見極めるための事例の一つ」と論じていますが、各種先行研究は、この文献の存在に一切触れていません。また、ビクトールの処遇については、収容機関のパリ聾唖教育施設管理委員会の計らいで、ごく近在の元修道院に身柄が移され、聾唖教育施設時代からの看護人のゲラン夫人に引き続き看護され、そこでそのまま最期を迎えた、ことが判明しています。
(3) イタールの墓の発見。同時に、イタール葬儀参列者名簿の中にセガンの名を見いだし得ないことの発見。
 以上の(1)〜(3)によって、セガンは、イタールから直接薫陶を得ていないだろうという推論が成立します。イタール実践から大きく啓示されるものがあったことは間違いがないことです、が。 
 では、セガンが何故にイタールを引き合いに出したのか、と言いますれば、両者の「イディオ教育」の質の差の強調のためだ、ということです。セガンがするイタール批判の本質は、イタールの実践はあくまでも個人教育であり、しかもビクトールが、労働によって社会参加するという、人類に普遍的な権利への、有効な成果を得ていない、それに対してセガンは、自身の実践によって、複数者に対する組織的教育が可能であることを実証し、しかも、その教育の成果として、子どもたちに、労働権を行使する社会参加を可能にした、つまり「すべての人の労働権」の実現に寄与した、ということを主張します。また「学校」を構想した、というのです。「学校」構想の実現は、きわめて初期の実践と、アメリカに渡ってからの晩年に、見ることができます。
 引き続き、セガン自身のイディオ教育開拓を、制度成立の側面から史料調査をしました。それによって判明したことは、次の(4)〜(7)です。
(4) イタールの薫陶と、イタール亡き後は、その友人で、当代最高位の精神科医エスキロルの助言を得て切り開いたという、7〜8歳の男の子、アドリアンに対する実践成果。1838年から1839年の実践を、15ページほどの報告書として、出版しています。この実践に対しては、エスキロルと、小児科医で、ヨーロッパ社会で名高い小児病院の第二代院長である、ゲルサンが、実践の到達の高さを認め、「他に適用することを可能にしている」、との確認書を認めました。これを第1実践とします。
(5) 続いてセガンは、公教育大臣の認可になる、クルという寄宿制教育施設を創設しました。記録に残っているのは1840年1月3日創設。パリ現9区当時2区のピガール通り6の共同住宅内に、セガンも居住して行った実践だと思われます。当時の精神科医たちが、患者たちと共同生活を進めながら治療を施す、「健康の家」のようなものを、セガンはイメージしたと思われます。3名の就学児がありました。これを第2実践とします。
(6) さらにセガンは、政府の内務大臣管轄下にあるところの、パリの医療・福祉行政の統括機関である、「パリ施療院・救済院ならびに在宅看護に関する総評議会」(略称、救済院総評議会)の 招聘あるいは招請というよりはむしろ 召致(無償・有償雇用)によって、「イディオの教師」との肩書きを与えられ、パリ北部、フォブール・サン=マルタン通り男子不治者救済院内に収容されている、男児10人に対する教育実践を開始しています。実践の記録が残されているのは、1841年10月より半年間。これを第3実践とします。
(7) 同じく救済院総評会の召致によって、男子養老院(俗称、ビセートル救済院)内に設置されていた、イディオのための学校écoleの教師として、1843年1月1日着任、24時間の住み込み勤務を命じられています。しかし、同年12月20日、罷免されます。子どもの数は数十人あるいは100人を超えていたという指摘があります。この数値に私は疑問を持っていますが、確証はありません。これを第4実践とします。この学校に、セガンは、アトリエを創設し、農業、木工細工、家事、裁縫、書記、製図等の労働訓練を施し、来るべき時、イディオたちが職人・労働者などとなり、独り立ちすることを計画していました。
 以上の(5)〜(7)については、公文書の発掘によって、それぞれの事実を証明することができました。(5)については国立古文書館で、(6)〜(7)については医療福祉古文書館(AP-HPアーカイヴズ)で見つけました。日米研究者では私が初めてのことだと思います。
 解読を進めるうちに、私はある種の興奮状態に入り込みました。何故かと言いますと、これらの公文書に、私が求めてきた、セガンの主体性という実像が残されていたからです。
 セガンは、第2実践の場クルを設立するにあたって、実践を審査するための審議会を開いてほしい旨の直訴状を、公教育大臣に宛てて出しています。それが、審議会の設置審議を促す公教育大臣の命令書に添付されていた形跡を、見ることができます。
 クルを開設して半年ほど後に、今度は、内務大臣宛に、自身のイディオ教育の成果を公的な機関で審議し、しかるべきところで、その実践ができるように取りはからってほしい旨を、これまた直訴しているのです。(7)もほぼ同じ手続きです。
 これまでの日米のセガ研究史では、セガンは政府から慫慂されて、公的機関で教育実践を行った、とされてきたのですが、私には、その指摘が腑に落ちないことでした。といいますのも、第1実践を手がけて第4実践の場を追われるまで、わずか6年間しかありません。何故に、頻繁に実践の場を変えたのか。それを解きほぐすキーワードを、第1実践の成果に対してなされた、エスキロルとゲルサンの確認書にある、「他に適用することを可能にしている」という文言に求めました。それに加えて、第1実践の報告書に引き続いて出版された、実践手引き書とも言える、『O…氏への助言』という冊子の存在です。この冊子は、セガンが『1846年著書』のなかで、ルソーの『エミール』を評して、ただ一人の子どものことを書いたにも関わらず、普遍性を持っている、と称えていることとの対比の意味で、私は重要視しました。この冊子は拙著に訳出して収録しております。
 いわば、自らが開発した内容と方法とがイディオ教育の普遍性を持っている、という確信がセガンに起こり、それを実証するために、まず、クルを開設するという行動になって表れた、と言うことができます。ところが、共同住宅管理人らの差別偏見による妨害行為も起因してだろうと思いますが、子どもが思ったようには集まらなかったため、続いて取った方策は救済院で実践をすることでした。イディオの子どもが多く収容され、しかもイディオ教育の実験的開発が進められつつあった救済院でならば、自身のイディオ教育の普遍性を、確実に確かめることができるだろうと願った、と理解できます。
 こうして、フォブール・サン=マルタン男子不治者救済院で教育実践を展開することができるようになりました。救済院管理者側は彼らの予定していた訓練プログラムを実施するようにセガンに命じますが、セガンは断固拒否し、自らの開拓した方法と内容とにこだわり続けます。
 当時の救済院組織改革のあおりを受けて、この救済院に収容されていた子どもたちのほとんどが、男子養老院内に1839年に開設されていた「学校」の生徒に組み入れられることになり、セガンは、やはり内務大臣宛の直訴状で、男子養老院に身柄を移してほしい旨の嘆願をしました。審査の結果その願いは叶います。1843年1月1日から教師の身分で雇用し、同年末に実践の成果の審議をする、という内容で、24時間住み込み賄い付き、「管理者の監督・命令に従うこと」との厳命が付けられています。ここでいう管理者とは、直接的にはフェリックス・ヴォアザンという精神科医で、いち早くイディオの教育による発達の可能性を医療教育的に探究していた人です。学校開設と同時に一人の教師が採用され、ヴォアザンの指示の許で、教育を行っていたとの文書を発見しましたが、その教育内容と方法がどのようなものであったのか、までは記録されておりません。1839年度いっぱいの採用であったようです。このような記録から推測できることは、セガンが雇用されたのは、この教師の後任であったのだろう、ということです。
 なお、この決定書は、セガンの『1846年著書』冒頭部に抄録されており、これまでのセガン研究で使用されてきています。しかし、原史料発掘によって、著書収録史料にはいささか加除があり、史料的価値を損なうものであることが判明しました。
 管理者側の言い分では、セガンは、指示命令等管理に従わない、セガンに言わせれば、管理者側は、実践上必要な方法や要求を認めようとしない、という対立が激しく、1843年12月20日、救済院総評議会は、セガンの罷免を決定しました。
 これで、セガンのフランス時代における公的なイディオ教育は、姿を消すことになります。実践の主体を奪われたセガンは、膨大なイディオ教育論等の著述に、レゾンデートルを見いだすことになります。
 最後に、本レポートのまとめをします。
 セガンの半生を探究して、私は、その主題を「孤立から社会化へ」と定めました。
 一つには、セガン自身が封建的因習の中に囲い込まれ、彼の家庭にふさわしい社会エリートとなるべく育てられたところから、疾風怒濤期に、その所与のエリート街道を踏み外し、自らの意志と行動で新たな道を開拓したこと。そして、その新しい道は、聖書に言うところの「神の下の平等」であり、それを実現するためにこそ、政治・文化等の闘争・活動やイディオ教育という社会参加を選んだこと。
 二つには、イディオたちの教育・訓練を通じて、彼らが労働者・職人として自立的に社会参加する可能性を実践的に追い求めたこと。
 この二つを重ねて主題化したのが「孤立から社会化へ」でありました。それはあたかも、私が研究者として追い求め続けてきている、青年期の自立の問題と、課題が重なっているかのようです。そういう点からすれば、私にとってセガン研究はとってつけたものではなく、素材はなるほど清水寛先生によって与えられたけれども、課題意識は、本質的に、自身に内在していたものであったと思います。
 そうは申しましても、
セガンの幼少年期、青年期のライフヒストリーから彼の「孤立から社会化へ」を描くにしても、
イディオ教育からイディオの「孤立から社会化へ」を描くにしても、
それらを決定的に実証する、状況や資史料との出会いに行き着くことは、困難でした。2009年度職場から与えられた長期サバティカルを最後の機会と思いなし、セガンの出自、イディオの社会参加の具体を知るべく、資史料調査とフィールドワークを行いました。その結果、先に述べましたように、セガンの家系を、両親の祖父母の代まで遡って、具体的にすることが出来、また、「労働者の権利クラブ」ポスターの発掘に行き当たった次第です。まさに残された二つのピースの穴が、ぴたりとはまり込むような史実に出会うことができ、セガン研究のジグゾーパズルが完成した、という感慨を得ました。
 肝心の拙著の記述に関しては、先行研究との関係性を、出来るだけ触れないようにした関係から、オリジナリティを読者に伝えることができていないと思います。このように、まだまだ課題は残されておりますが、ひとまず休止符を打つことができた次第であります。
 続くセガン研究の課題は、もし体力が続くならば、という条件が付きますが、19世紀前半期1815年に、ペスタロッチー、ベル、ランカスター等を「外国人会員」に迎え入れ、フランス・パリに組織された「初等教育協会」について、調査をしたいことがあります。同協会の有力会員であったペスタロッチー主義者のアモロスに、セガンは、強い影響を受けていることが判明しています。同協会の機関誌の創刊号から幾号かは入手済みです。セガンを生活教育史の面から捉え直すことが可能かもしれません。
 身体にいくつかのひずみが出て、日々の生活に差し障りが出るような状態とつきあって暮らしながらも、研究者としての希望と努力は失わずに参りたいと思います。これからも、何とぞ、ご指導下さいますよう、お願いいたします。
        2011年1月8日
川口幸宏