誉められた?

 「道徳教育の研究」では「世界の中の日本」というテーマで、5人の海外生活経験者に対して教室からあれこれ質問を入れ、経験の中でつかんだ異文化のさまざまな側面を明らかにする、という「参加型」の模擬授業を行なった。「旅」と「異文化生活」についてイメージが付かない学生も多くいるはずなので、ぼくの書いたた旅エッセイを「基調報告」として授業開始時に配布。20分程度の黙読の後、模擬授業に入る。
 さて、この「基調報告」のエッセイ。瀬田康司と署名してあり、僕だということを明かしていない。「へたくそなエッセイ。読むだけ無駄。」という痛烈な批判がなされる一方で、以下のような声も出される。
「瀬田さんの文はいつも不思議です。20代ぐらいの若い文筆家が書いているように感じられます。若々しい文を書くコツってありますか?」
 この声の主は瀬田康司がぼくであることを知っており、おまけに、ぼくのエッセイをよく読んでいるということだ。知られているんじゃ、仕方がない。次のように返信することにした。
「別のクラスではメチョンメチョンにけなされていても―ケチョンケチョンと表記しないのが瀬田流なのかな―、あなたは、褒めてくださっているのですよねぇ。エッセイの言葉は、研究論文と違って、感性の形象です。思ったことを感じたままに、浮かんできた言葉を連ねる、ただそれだけです。思うこと、感じることが、言葉を創造してくれるのでしょう。ですから、思うこと、感じることが少ないと言葉も生きてきませんね。」