今年の大きな出来事 『2008年夏秋旅日記』

 今年のぼくをめぐる出来事で言えば、なんといっても、エドゥアール・オネジム・セガン研究の大きな区切りをつける史料の発掘があったことだ。その記録を当時のままで。

2008年夏秋旅日記

8月26日火 晴れ
 朝11時10分発日本航空便でパリに向かう。満席。若い人の集団?群れ?が目立った。機内ではほとんど眠ることが無く、映画を見たり読書をしたりして過ごした。
 同日午後4時半頃ドゴール空港に到着。K君が出迎えてくれた。研究資料と手みやげとをリュックひとつ分渡す。ホテルまではタクシー。ホテルは11区、かつて居住したサンタンブロアーズ界隈の近くフォーリィー・メルキュール界隈。中国人が多く住み働く界隈であったが、さらにそれは大きく、そして貧富の差が激しくなっていた。その名もフォーリィー・メルキュールホテルは、その差の激しいドロップアウト側の層が住む界隈にある。暗くなると外歩きに細心の注意を要するようである。小さな、外見は古ぼけているが、内装はきれいにしてある。シャワールーム、ベッドルームの小さな部屋。
 K君と夕食を共に。レプブリーク広場近くの中国料理店。懐かしい界隈である。しかしもう8年以上も前のことなのだ。
 夕食前にカルト・オランジュを購入。これで交通費のあれこれに頭を痛めなくてもすむ。

8月27日水 晴れ
 昨夜はほとんど眠れず。朝7時に朝食を摂りに下に行くがまだ準備ができていない状態。朝食は、パン・オ・ショコラ、クロワッサン、バゲット、コーヒー、オレンジジュース。心の準備をしていたよりは遙かに質素。「いつもの」ゆで卵、果物がないのだから。
 8時から12時まではバスティーユ近辺の散策。リシャール・ルノアール大通りを通ってバスティーユへ、ボージュ広場へ、サン・ポール界隈へ、そしてオーギュスト壁へと、ほぼ「定盤」。とはいえ、多くのアクシデントに見舞われる。なかでも、ホームレスが三々五々、リシャール・ルノアール大通りの中央分離帯公園近辺でたむろしていたが、100ユーロもの「物乞い」に出会う。こうなると、「支払い」をせずとも、ほとんど強奪だろうが。ホテル界隈もそうだが、下町がますます下町となり、風紀も安全とは言い得ない。やや恐怖を感じながらの散策であった。朝っぱらから売春女と出会うし、濃厚な愛情交換中のカップルにも出会うし、何でもありの大通公園と変じていた。
 12時過ぎに新オペラ座前でK君と落ち合い、レオンでムール貝料理を昼食に。デザートは定番のババ。
 食後、AP−HP古文書館へ。1833年の「報告書」を閲覧。手書き文書が製本されて保存されていた。全ページ写真撮影が可能だというので、その作業をする。
 夕食は日本人女性が経営する小さなレストラン。オムライスなどをいただくが、あまりおいしくはなかった。しかし、値段はとびきりに高い。
 オペラ座地下鉄駅でK君と別れ、帰途につく。オベルカンプで降りたが道が分からず再び地下鉄に揺られサンタンブロワーズへ。そこからは間違えることなく―不安ではあったが―ホテルへ。今日は入口が開いていた。

8月28日 木 曇り
 7時半朝食。昨日と同じ。これからもそうだろう。少し対策を考えなければなるまい。
 8時半、宿を出る。
 まず、地下鉄駅オブリカンプから宿への道のりがどうしてもわからないので、今朝はまずその道筋の確認。特徴をつかんで地理を頭に叩き込む。
 リシャール・ルノアール通り(バスティーユ寄り)で朝市が開かれていた。これ幸い。2000年によく利用したところだ。朝市はかなり様子が変わってきている。魚屋、八百屋は以前と同じか少なくなったか。断然に少なくなったのは動物肉関係。増えたのは衣装店。トマトとオレンジ、生卵、パンを購入。朝市で2時間ほど過ごし、AP-HP博物館を目指す。その途中、トイレ借用のため、昨日立ち寄ったカフェに行く。昨日の老婦人が今日もおりにこやかに接客を受けた。コーヒーを飲んだ後、老婦人に、アビヤントゥと挨拶をしたら、メルシー・ボクゥ・、ムッシュと丁寧な挨拶をいただく。
 セーヌ川沿いにある博物館は、やはり、「8月いっぱいはお休み」との張り紙。
 やむを得ず書籍を求めるためにサン=ミッシェル大通りを目指して歩き始めたが、途中でふと横道に入った。うろうろとあちこちの道を無意識に進んでいくと朝市が開かれていた。目の端に「モンジュ」の文字が入ったのでなつかしのモンジュ広場の朝市かと思って眺めていたがどうも様子が異なる。フォアグラと蜂蜜の店がなかなか立派だった。
 坂道を登っていくとパンテオンの姿が目に入ったので、そこでセガン関係の探索を思いつき、まずは、セガンが厳しく批判していたリセ・アンリーIV世を写真に収めた。ルソーさんもカメラに収めたが今日は後ろ姿。続いてセガンが居住していた元地獄通りのあたりをつけ写真を撮った。が、違う気がしてならない。ここはK君に撮影してもらっているので少々気が抜けた作業となってしまったのか。
 その後リュクサンブール公園で体を休めた。例の古書店もバカンス中らしいが、展示されている古書の中で1830年から1950年ごろまでの児童労働の実態を示す書籍がとても気になった。9月に入ってぜひ訪問し、購入したい。
 このあたりで急速に疲労感を覚える。バスを利用して帰路に着こうと考えたが、バス路線を丹念に眺め乗換え等を研究しようとする気力もなく、とりあえず聞き知った見知った地名をバス停の名称にしていた54番路線に乗る。定期で初めてだ。オテル・ド・ヴィルで文字通り飛び降り、リヴォリー通りを歩き始めるが、地下鉄の入り口を見つけて階段を下りた。なんと1号線。これでバスティーユに行き、5号線に乗り換えればオブリカンプ駅となる。
 車内で路線図を眺めていて、ふと気がついた。終点のシャトー・ド・バンセンヌは、かのバルベスが幽閉されたところ、行って写真を撮りたいとかねてより願っていたから、絶好の機会となった。こぎれいで、しゃれたバンセンヌ城内には観光客団体もちらほら。しかし、空間をほとんど一人で占拠。バルベスが幽閉されたと思われる塔があり入場しようとしたが、受付に戻りチケットを購入するようにとの指示があったので、断念。いずれまた訪問することがあるだろう。塔やその他城内の写真を撮り−満足行くまでとはいかないが−、資料を3点購入。やはり城西にある塔は監獄もかねていた。
 帰路に着く。帰り道は迷うことはなかった。
 ホテルについて、ゆで卵を作る。ついでに、早めではあるが、チキンラーメン卵落としを作り、夕食に代える。今夜は熟睡で長く眠りたい。眠れるだろう。
 明日はイタールの墓捜し。モンパルナス墓地にて。

8月29日 金 曇りのち晴れ
 4時半に目覚める。昨夜が8時頃には眠りについていたことを考えれば異常ではないのだが、時差ぼけ症状の頭である。1816年報告書を読む。子どもの教育に関わる記述を確認。詳細に読み込む必要がある。シャワーを浴び8時過ぎに朝食へ。他の客が先に食事をしていた。同胞か?の高校生かと見まがう男女カップルの隣のテーブルをあてがわれ気に入らないが仕方がない。
 ゆで卵とトマト・オレンジ、パンなどをリュックに詰め込む。リシャール・ルノアール通り(オベルカンプ側)で開かれている朝市を一通り覗く。非常に立派な朝市。リシャール・ルノアールバスティーユ側)がパリ一だと思っていたのを覆された。店もなかなか立派である。ポークの店で、貴婦人トドちゃんのお薦めレシピにあったソーセージ二本を購入。ポークの生首も売られていた。それとも店の飾りなのだろうか。記念写真を撮りたかったがどう言って許可をもらえばいいのか不明なのであきらめた。
 モンパルナス墓地を目指し、地下鉄に乗る。予定では9号線に乗りナシオンで6号線に乗り換えエドガー・キネという駅で降りるつもりであったが、乗る路線を間違え、5号線に乗ってしまった。プラス・ディタリー駅で6号線に乗り換えることになった。しかし、実はこれが距離的には短い方を選んだことになる。幸先良い、と思ったのだが・・・。
 広大なモンパルナス墓地をどう攻めて、イタールの墓を探し当てるか。管理事務所に詳細を訊ねることは可能なのだろうが、いかんせん、言葉がさっぱり分からないと来てはそれは無理。結局ローラー作戦となる。イタール伝の結びで「中央ロータリーに棺が進む・・・」とあったのを手がかりにしようと思い、ロータリーに面している1区から4区を探索対象とした。まったくあてがないところからはじめるのだから、一基ごとに確認せざるを得ない。しかし、やがて、かのイタール伝に墓標が「ここに眠る/・・・」で始まっていたこと、家族を持たなかったことなどを思い出し、それを手がかりにして、一基ごとの詳細な確認手続きはしないようにした。それでも、少しの休憩を入れて4時間。結局は発見することができなかった。
 だが、研究上に意味のある気づきと、研究の中の「遊び」という楽しさとを見いだした。すべては4区でのことなのだが、セガ研究史では重要な役割を果たすオルフィラの没後 150年記念碑(2003年建立)は、イタール捜しで疲れ切っていた折だけに、感動させられた。それに勢いを得て探索を丹念にする。すると、「Jean dit Victor」という墓標の古い墓石に出会った。ただそれだけしか書かれていない。だから、ジャン通称ヴィクトールが何時生まれ何時亡くなったのか、どのような生涯を送ったのか、どこで生まれどこで死んだのか、まったく不明である。かの野生児ヴィクトールにふさわしいではないか、と思った次第である。さらに探索を続けると、Familles de Parseval et Guerin とだけ刻まれたかなり古く規模の小さな墓石と出会った。先ほどのヴィクトールの墓とまったく同じである。こういう墓自体が珍しい。イタールと関わらなければなんということなく見逃して、イヤ、目にも入らない質素なお墓でしかないのだ。ヴィクトールの生涯を看取ったゲラン夫人の墓・・・。もちろん夢想である。
 これらを「土産」として、モンパルナス墓地を後にし、宿に戻ることにした。帰路は別の手段でと考えたわけではないが、いつしか、モンパルナスからリュクサンブール公園へと足が進む。このモンパルナス大通り沿いの古本屋に古い絵はがきが売られていたのを思い出したのだ。残念ながら絵はがきを売っていた古書店はバカンスでお休みであった。
 ポル・ローヤル駅からRER利用した。車中混雑していたので少し不安があったが、親切なアジア系やヨーロッパ系の若者が席を譲ってくれたりする幸せ感も味わうことができた。北駅で地下鉄5号線に乗り換えオブリカンプへ帰り着く。自然食品の店で卵とグレープフルーツジュースを購入。
 ご飯を炊き、ソーセージをゆで、宿での初の米食夕食。その後、明日の活動のためゆで卵を作る。さて、明日は・・・。モンパルナス界隈で巨大な朝市が開かれるはず。それを目当てにしてとにかく出かけることにしよう。

8月30日 土 晴れ 暑い一日
 5時半に起床。日本は大荒れとのこと。今年の8月中旬以降、雷雨共に激しい気候が続いている。
 朝食まで何をするともなく過ごす。7時半朝食、8時過ぎに宿を出る。昨夜立てた予定を変更し、モンパルナス墓地近辺の朝市を覗いた後、クリニャンクールに古書を探しに行くことにした。地下鉄はすっかり乗り慣れている。ただ、定期は明日までのこと。
 5号線でプラス・ディタリー、乗り換え6号線でエドガー・キネ下車。地下鉄を上がるとずらりと朝市の店が並んでいた。トマトと焼きソーセージを購入。今日はちょっと贅沢気分である。
 エドガー・キネから6号線でラスパイユまで戻り、そこから4号線で終点クリニャンクール。たいそうな賑わい。物乞いも見かけた。古書店でマガザン・ピロテスクの1849年版を購入。イラストラシオンを求める予定であったが、前に見かけた復刻版は姿を消してしまっていた故。
 古書店を出て、コイン屋の店先に並んでいた古絵はがきで、オーセールを探しているところへ店のムッシュが声をかけてきた。よく分からないけれど、ヨンヌ県の葉書ならまだまだあるよ、と言っているようだ。それで、「ニエーヴル、クラムシー(がほしい)」と意思表示をすると発音が通じ、どんと目の前に箱ごと置いてくれた。小一時間ほど購入するための選別作業をする。およそ80枚。200ユーロをふっかけられたが、値段交渉する能力はまるでなく、言い値を払う。カードでは駄目で現金だとのこと。
 帰りは4号線、北駅で乗り換えようと思ったが、あまりにも人が多く、クリニャンクールの人混みでスリの被害に遭いかけたことを併せ考え、そのまま乗り続けた。モンパルナス墓地に再び立ち寄り、しばしベンチで休息(昼食)をとり、宿に戻る。

8月31日 日 晴れ ごく一時ぱらつく
 昨夜ベッドにはいるのが遅かったので今朝はゆっくり眠れると思っていたのだが、6時過ぎには目が覚める。ライティングディスクの上の電球が切れた。どうしようかと思ってトドちゃんにメールでつぶやいたら、「故障と書いて電気に張り紙をしておくの」と助言を下さった。成る程と思い、「panne」と付箋に書いてスイッチに張っておく。さて、部屋の掃除の人は気がつき、電球を取り替えてくれるか・・・・。結論から言うと、何も変化は起こっていない。ゴミの整理とベッドメークがしてあっただけ。フロントに、「僕の部屋、電気、故障」とフランス語で言ったら、通じたようで、「7時過ぎに交換に行くから」という返事が英語であった。渋々引き下がったがどうにもそれまでの間不自由で仕方がない、それで、切れた電球を外しフロントに「チェンジ」と要求した。身振りで、あなたが交換するのか、と言うので、「うぃ」と返事。かくして電気は明々と点っている次第。
 朝食中、例の若者カップルが荷物を持って宿を出て行った。
 9時前宿を出る。Oberkampfから5号線でGARE D’AUSTERITZ下車。サルペトリエール病院訪問。ピネルの銅像を写真に収め旧サルペトリエール救済院の門をくぐると、病院の敷地。チャペル・サン=ルイの中を一巡りした後、構内を散策。以前清水寛先生と訪問したシャンブルはどこなのだろう。雨の日ガラス窓の向こうの方にサン=ルイの聖堂の屋根がぼくの心にまぶしく輝いて映ったことを思い出す。今回の僕の訪問はほんの一面でしかない。あまりにも広大である。およそ2時間弱の訪問。続いて、
 GARE D’AUSTERITZから5号線でPLACE D’ITALIE、続いて7号線でLe Kremlin-Bicêtre下車。ビセートル病院の訪問である。以前とは違った構内散策を試み、いろいろの発見があったのはおもしろいことであった。しかし、肝心のブルヌビル棟近辺は大工事中で容易には近づけない。行ったり来たり思案をしながら構内地図を眺めているところへ、「どこに行きたいのか」とのような声かけが、散策中の老紳士からなされた。地図 を示しながら、バチモン・ブルヌビルのエコールを訪問したい、と、私はフランス語の会話ができませんと英語で断りながら応えると、地図内の道−それは救急患者の搬入、死者の搬出等のための建物への道―を指でなぞりながら、イシー・・・・イシー・・・・と教えてくれた。
 ブルヌビル棟へようようのことで行きあたったが、以前に訪問した時とは違った道だったので、新しい発見があったのはありがたい。児童病棟であるところから、当然のこと、両親のための施設が整えられていることを見いだしたのは、ことのほかうれしい。二人の子どもを長期入院させた経験からすれば、日本の病院は子どもの親に対して「目こぼし」程度で子どもの看護を認めているに過ぎない。同一病棟で親と子が生活できることは、親にとっても、子どもにとっても、精神的に安心感を得られるのだし、それが何よりも治療効果があることは言うまでもないのだ。
 目的の病院内学校(エコール)の外観だけでも訪問したいと思っていたことは、果たせなかった。というのも、カーテンが下ろされていたからだ。隙間からのぞき見たところでは、以前の訪問と変わらず、やはり「学校」であった。しかし、きわめて小さな空間なので、どのぐらいの人数が通い、どのような内容が教育されているのかは、想像することさえできなかった。
 古い絵はがきで見た「狂人を収容する建物と前庭」にそっくりな一画に行きあたる。庭を歩き、回廊を、各部屋の覗き窓から覗きながら、歩いた。もちろん、現在は、別の目的で使用されている。しかし、歴史を容易に回想することができる「遺跡」を残し続けてほしいものだと、あちこちの建物が工事によってまったく以前とは様子の異なった建物外観になっているものを見せられるにつけ、強く願った。2時間有余の訪問。続いて、
 Kremlin-Bicêtreから7号線PLACE D’ITALIEで乗り換え、6号線Denfert-Rochereau下車。この界隈はカタコンブの入口があるところで、2000年滞在の折、平良明子さんと瓦林亜希子さんとにつれられて訪問したところである。今日は、若者が次から次へと、入口に吸い込まれていった。彼らは、地底の人骨の壁を見て、何を思うのだろうか。
 うろうろし、地図をためつすがめつしてみているぼくにエスコートの声掛け。オピタル・サン・ヴァンス・ド・ポールと、つぶやくと、老婦人のにこやかな道案内。サン=ヴァンス・ド・ポール病院すなわち捨て子施療院へと行き着く。いつ見てもファサードの子ども像が哀れである。続いて天文台を見て、旧「地獄通り」を歩く。セガンがかつて居住していた証のある通り名である。ヴァル・ド・グラスを視界に収め、パリ聾唖学校を訪問。といっても中にはいることは不可能なので、外回りを一巡する程度である。しかし、来るたびに新鮮な思いをする。思わずシャッターチャンスを狙ったりもする。この訪問あたりで、かなり強い疲労感を覚えはじめた。2時間弱の訪問。体にかつてのような危険信号が出ているような気にもなったが、続いて、
 LuxembourgからRERでDenfert-Rochereauへ、続いて6号線Montparnasse Bienvenueで乗り換え13号線Duroc下車。なじみであり懐かしのドゥ・セヴル通りをモン・マルシェ方面に歩みを進める。不治者救済院(女子)跡地を訪ねる。セガンがここと男子不治者救済院の両方で白痴教育をするように、救済院総評議会によって命じられたところだ。現実にはここで白痴教育に携わることはなかった。そういう歴史舞台であったなど、知る人はほとんどいない。今はただ、この跡地が再生されるべく、さまざまな力が働いているであろう、しかしその力は現実化しない、ということが、何年にもわたって、まるで包帯のように、張り巡らされた告知文が物語っている。新しいアングルを求めてカメラを構えてはみる。
 次の訪問先はネッカー子ども病院である。中に入って、かなうことなら、院内学校の外見だけでも写真に撮りたいと願って、足を進めた。しかし、あろう事か、ここもまた工事中である。例の歴史門の向こう側にぴったりと貼り付けられたベニヤ板。中を覗き見ることさえ不能である。なんとしたことか・・・。
 気落ちしたこともある。これまでの疲労の極限状態でもある。セーヌ川右岸に渡り、続くセガンの史跡訪問の気力がすっかりと萎えてしまっていた。今来た道を戻る気力もない。へたり込む、ということがぴったりの状態であった。
 座り込んでいるベンチが、28番線、サン=ラザール行きのバス停Hôpital Enfan Maladeであるではないか。これに乗り、サン=ラザール近辺のセガン史跡を訪問するという手があった。バスの乗車距離は長いから、その間に疲れは少しは取れるだろう。
 車内から、アンヴァリッド、トドカデロなど、パリの名所、建築物を見学。なかなかしゃれたパリ観光ではある。サン=ラザールで下車し、ロシェ通りの写真を撮り、ピガール通りへと向かう。ピガール通りにあった和風喫茶ももかは影も形もなくなっていた。昨年の9月にはまだ開店していたのに。ピガール通りを引き返し、ラ・ショッセー・ダンタン通りの写真を撮った後、宿に戻ることにした。5時になりなんとしていた。
 地下鉄12号線Trinité d’Estienne d’OrvesからMadleineへ、8号線に乗り換えRépblique、そして5号線で出発駅Oberkampfに到着。
 およそ8時間余にわたる史跡巡りの旅。研究を意味づけるような新しい発見は何もなかったが、感性的認識を強めてくれもした。男子不治者救済院その他についての訪問は果たせなかったので明日の朝に持ち越しとなった。
 夕食の準備をする気力が起こらず、中華総菜を購入。にぎり寿司も並んで、なかなか魅力的な店である。

9月1日 月 雨のち晴れ
 朝9時に宿を出る。サンタンブロワーズ駅で定期を購入。その足で9号線終点のポン・ド・セヴル(セヴル橋)に向かう。パリの西端を意識した行動である。橋の上から、橋の側面から、橋の下から、セーヌ川を眺める。沿岸に、パリ・コミューン写真でおなじみのサン・クルーの光景を見いだし、感動の一時を過ごした。12時半に地下鉄パレ・ロワイヤル入口近辺でK君と待ち合わせをしている関係で、11時過ぎにポン・ド・セヴルを発し、9号線ショッセーダンタン ラファイエットで下車。約1時間をかけて、セガンの居住地・活躍の場の検証を行う。ショッセーダンタン通り、モンシニ通り、サンタンヌ通り。サンタンヌ通りの住居表示が28番、その隣は道路となり道路の対面が16番となっていた。どう見ても間違いの数列なのだが、今まで気づかなかったのだろうか?
 パレ・ロワイヤル近辺でK君と落ち合い、昼食をともにしながら、学習会。3時過ぎに別れ、ホテルに向かう。気がつくとレプブリーク駅を過ごしてしまい、次の停車駅がペール・ラッシェーズであることに意味を持たせようと自身に言い聞かせ、下車。先ずは墓地の外壁の外を廻る。パリ・コミューンのモニュメントにさしかかると、残念な光景。モニュメントに白い塗料で大きく落書きされていた。今までにない光景に相当のショック。この出来事は、今回の滞在の意義を皆無にしてしまうほどの精神的な痛みを感じさせられた。
 墓地内で連盟兵のモニュメントのあるパリ・コミューン広場で気持ちを落ち着かせ、後は戦争や差別・虐待の証となるメモリアルにしばし心を寄せながら、墓地を出た。
 墓地には、2000年滞在の折、しばしばアパルトマンから散歩をかねて出かけてきたものだ。その当時を思い、帰路の手段として徒歩を選ぶ。アヴェニュー・レプブリークをひたすらレプブリーク方面に向かう。途中で、路上の貧相な果物売りからブドウを一房購入。2ユーロ50サンチーム。まだ口には入れていない。レプブリーク通りと宿のあるフォーリー・メルキュール通りとは交差している。久しぶりに距離のあるところを徒歩利用。もう、足がパンパン。

9月2日 火 曇りのち小雨
 昨夜はほとんど眠れず。6時に起床。朝食7時半まで何をすることも無し。8時半に宿を出る。リシャール・ルノアール通りで朝市が開かれていたので、一巡する。今日は終日K君と行動を共にする予定なので、何も購入しなかった。
 その後5号線で東駅まで。最初に方向違いに乗るというささやかな間違いを犯した。東駅で下車し、元フォブール・サン=マルタン不治者救済院の建物の外観を一周。公園側の、現在では隠れてしまっている、当時の正面=ファサードを飽きず眺める。ここもまた、工事中だった。しかしそのおかげというべきか、少しだけ、開け放たれた窓から部屋の様子を見ることができたのは幸いというべきだろう。歴史的遺跡に関する説明・表示によれば、ファサードは18世紀のものがそのままだとのこと。セガンより古い時代からここにずっとたったままなのである。
 東駅より5号線でバスティーユまで、しばし、サン=マルタン運河河岸を散策する。そこから見る「7月の円柱」もまた、一興である。
 11時過ぎ、K君と落ち合う。昼食を摂る暇もなく、AP−HP古文書館へ。
 リトグラフの類を見ることはできず、病弱児教育についてはほとんど資料的に進展はなかったものの、研究上非常に有効な資史料との出会い。古文書館の専門員も確かな情報を持っていなかったのが、「児童病院」と「病弱児病院」との異同の問題である。専門員は即座に同一であると言明したが、あれこれと出された資史料を見ると同一でもあったり別の病院であったりしている。ぼくが見た1816年発行の報告書に見られる「児童病院」とは一体、「病弱児病院」なのか別の病院なのか、それを確かにすることがまず求められる。そのための手がかりとなるものは得られていない。同一である証の史料もあれば、別である証の史料もあるからだ。
 ぼくにとっての大発見といえば、セガンに関わる当事史料である。ビセートル救済院に任ぜられたり罷免されたり、手当て(600フラン)が支給されることになったりと(ただし、この手当て支給は、あくまでも「予定」でしかないのだが)、知り得ていた史料、知り得ていない史料との出会いであった。手書き史料をカメラファインダーから覗き、シャッターを押す瞬間、すべてにおいて、うまく複写できていないのではないか、という不安が起こる。事実、ピンぼけが何枚かある。これからの作業で、復元を試みるしかない。歴史的文書との出会いは、いつも胸がとどろくものである。
 K君は、病弱児病院の児童名簿をくって、アドレアンの名を探してくれた。マイクロフィルムに保存されている。1835,6,7年の名簿のAの項を複写してくれた。
 専門員の懇切丁寧な応対に深く感謝しながらも、今ひとつ、作業に乗り切れない自分がいるのを発見した。生涯にわたってこの自分とつきあっていくのか、それとも今だけのことなのか、ぼくにも分からない。
 4時半頃に終了。後、カフェで休息を取り、少しの学習会の後、レオンでムール貝の夕食。これもあいも変わらないことだ。食後明日のことについて打ち合わせ。11時半、今日の場所で落ち合う。

9月3日 水 小雨のち晴れ
 6時半起床。朝食までファイルの修正などの作業。8時半に宿を出る。11時半にK君と待ち合わせなので、それまでをパリ滞在最後の日にふさわしいところと、バンセンヌ城を選ぼうとした。しかし、ふと、路面電車を思い出し、初の乗車体験をしてみたいと考えを改めた。地下鉄5号線でプラス・ディタリーへ、それから7号線に乗り換えポルト・ディタリー下車。地上に上がってみると、路面電車線路が敷設された頃の見かけた光景がフラッシュ・バックした。路面電車はTremwayという。その3号線が、目の前の路線なのだ。T3号線のポルト・ディタリーからポルト・ディヴリー(終点)へ。時間がどれほどかかるのか不明だったので、こわごわの乗車経験であった。「試乗」してみて、なかなか快適であり、所要時間もさほどのことはないと知れ、好奇心が強く起こる。待ち合わせ時間にはまだ3時間余もある、ではもっと路面電車に乗ってみよう、これまで行ったことのない土地、しかし知っている地名のところを走破してみよう、という「チャレンジ精神」(なんと狭量でちっぽけな!)が起こってきた。折り返しT3号線に乗りポルト・ドルレアンで下車、なかなかの賑わいの街並みである。日本人と見られ、おそらく個人観光客だと思われる若い男性、母子連れも同乗していた。カフェで一休みし、さらに路面電車に乗る。BALARDで下車。
 そこからは地下鉄8号線で、いわばパリを西端から縦横断するように、といっても地下なので外界の様子は皆目分からないのだが、バスティーユ下車。待ち合わせまで、さらにまだ30分ほどあったので、近世期建築物の残るサン=ポール街区を散策。
 カフェでK君と学習会。昼食を、2000年滞在当時、K君が学んでいた語学学校の近くの中国料理店で食する。そこへの交通手段はバスティーユ(サン=ポール)からバス47番路線。サン=シュルピス下車。教会は相変わらず工事中である。昼食は堅焼きそば。味が濃く食べ残してしまった。
 その後、リュクサンブール公園裏手のなじみの古本屋へ。そこで児童労働に関する書籍(復刻版)を見かけていたので、それを入手するつもりで伺った。店主に「ボンシュール」と元気よく声掛けた、ムッシュは一瞬びっくりしたような表情をし、温かく迎えてくれた。せっかくの訪問だから他の本も、と、「サン=シモン関係の書物はないか」と訊ねると、サン=シモン主義教義等を纏めた稀覯本他1冊が出された。サン=シモン教義書はセガン研究にとっては必須のものであり、フランス国立図書館のネットサービスで閲覧していたがやはり十分には読むことができないでいたのだ。100ユーロの値。ずいぶんと安値のように思われる。児童労働研究の復刻版、パリ・コミューン下で出された幻の雑誌『赤い本』復刻版はプレゼントだよ、と提供してくださった。ムッシュから、くれぐれも体を大事にしてください、とのいたわりを受け、店を後にした次第である。
 その後は、「捨て子施療院」の、修道女たちが営むブティックまで徒歩。ブティックでおみやげの買い物。その後は、カフェで休み、徒歩でシテ島の勇み寿司まで出かける。途中、聾唖学校に立ち寄り、中庭を覗き見、また表玄関からド・レペの立像を覗き見る。K君は初めて見たようである。また、書店ジベールにも立ち寄り、イタール関係史料を購入。
 勇み寿司から徒歩で1号線サン=ポールからバスティーまで、そこでK君と別れ、乗り換え5号線オベルカンプまで。
 明日帰国。従って、今回の旅日記はこれにて閉じることにする。

 オーバー!