何十年ぶりとは大げさか

 昨夜、和歌山県西牟婁郡すさみ町長の橋本明彦氏に、学生指導上から生じた依頼ごとのため、電話をした。橋本氏、いや、受話器を通してだが、橋本君の生声は、かつて交流を盛んにした彼の学生時代およびその後しばらくの間の時代の声色、声調などとほとんど変わらない。当たり前のことだが、落ち着いて噛みしめるような語り口調は立場が作り出した今の彼の人格の表れなのだろうな。
 橋本君がすさみ町長に就任したのは2007年4月のこと。風のうわさで耳にして、ついに彼は学生時代からの夢の仕上げに取り掛かったかと感慨深かった。
 埼玉大学勤務時代、橋本君は、自身の所属する大学の指導教員からぼくの開講するゼミで学ぶことを勧められたたと言って、訪問してきた。「あっくん」とのニックネームでゼミの一員として学んだ。ぼくは、「あっくん」が自己語りする成育史、そしてその成育史の土台を作り上げたすさみ町、さらにはそのすさみ町で地元の若者たちと創る「文化村」の実践に、たいそう興味ひかれた。過疎化する一方の地元、とりわけ若者達の「生きる意味」を、大所高所からではなく、地元そのものに密着して実践をする橋本君がとても輝いて見えた。彼の慫慂を受けて、すさみ町を訪問し、文化村主催の講演会で地元の人たちの前で子どもが育つことの意味を語らせていただき、夜は、地元の若衆たちと座談会、手作りパーティに参加させていただいた。
 その後橋本君は公務員としてすさみ町に職を得、社会教育畑で活躍された。中学生を相手にした実践などは全国的に注目されたものであった。中学校教育実践はたくさんあるが、学校外での中学生に向けての学力保障、生き方学習など、今日的に言えば総合学習、ぼくの専門性で言えば生活教育、あるいはフレネ教育、それらを創りあげた力量に驚嘆させられた。「ぼくは橋本君の足元にも及ばない」と自己否定にさえ陥ったほどである。和歌山大学に転じたことで、末永く橋本君やすさみ町の人びととの交流が可能になったと喜んだものだが、あっという間の和歌山時代であったため、それが叶わなかった。
 
 今回の電話は、ぼくのところに進路相談に来ているI君が、将来的にエコ・ツーリズムをテーマとした研究と実践をしていきたいということに、ぼくなりに何らかの道を指し示すことができればと思ってのことである。すさみ町HPにリンクされている「町長通信」を拝読すると、専修大学経済学研究科博士課程の院生も訪問し、研究フィールドにしていることが載せられていた(町長通信、第366号)。それで、橋本明彦市長にお願いの電話を入れたわけである。即断で、ご協力しましょう、と快諾くださった。
 さあ、I君、研究フィールドが一つは確実になった。後は君の努力に掛かっている。うんと応援したいI君である。
 
 すさみ町のキャッチフレーズ:
 太陽がまぶしい 吹く風があたたかい 黒潮おどる南国 すさみ

 橋本町長は1960年生まれ。