資料『発見』行為続く

 貴婦人トドちゃんが冬の北海道ツアーに今日からお出かけ。流氷が見られないらしいとメールでこぼしておられたが、さて、どうなのだろう。
 入試関係の日程詳細の発表は今日もなし。
 これまで未入手だったセガンの1873年著書『体温計と数的検温 その医療、外科、教育への適用』を全文入手。セガンの医療改革の一端が示される。基準体温を0度とする。今ではこのセガン方式は採り入れられていない。なお、この本の著者名はフランス人名のエドゥアール・セガン、M.D.(医学博士)の肩書きが付けられている。
 今日のこだわりはイタール。セガンが白痴教育の道の第1の、そして最大の師匠。ただ、セガンがイタール実践(「アヴェロンの野生児」)の顛末についてあまりにもずさんに書いているため、ひょっとしたら詳細な口伝による指導ではないのではないかとの疑いが消えず。
 イタールの死亡確認書を「発見」。1838年7月3日、享年63歳であった。以下の如し。

 確認書署名者はイタールの「いとこ」たち。イタールは生涯独身であったので「身内」となると「いとこ」だったのだろう。現在のパリ16区、当時パリ郊外のパッシーコミューンのボーゼジュールで亡くなり、勤務先であったパリ王立聾唖教育施設のすぐ近くのヴァル・ド・グラスのノートル=ダム教会(現在はヴァル=ド=グラス市民病院内施設)に亡骸を移送、7月6日葬儀、そしてモンパルナス墓地に葬られた。イタール伝を書いているティエリ・ギネストは葬列参加者の名を上げているがそこには我らがセガンの名は無い。フランスのセガン研究者の言うようにセガンはイタールに従って聾唖教育施設の補助教師になったというのならば、当然葬列参加者の一員であったであろうし、たとえ補助教師でなくイタールに私事で教えを得ていたとしても第1実践の渦中であるし、その関係で、ギネストが言うように先月6月にパッシーのイタールを訪なっていたとしたら、やはり葬列には参加したであろう。だとしたらやはり参加者の名簿に加えられていていいはずだ。・・・いやいや、陰でこっそりお見送りだったのかもしれないなー。そういう風習がフランス19世紀にあったとして、だけど。
 埋葬墓地はモンパルナスだとギネストは言う。これまで二度同墓地を訪問しているが、今なおイタールの墓を見出すことはできない。今度こそ!
 Gazette médicale de Paris : journal de médecine et des sciences accessoires, Tome IV. No.28. 14.juillet 1836. p.446.に医学アカデミー1838年7月10日会議の概要が掲載されている。議題は「イタールからアカデミーへの遺贈」。1.50000フラン、2.1821年初版の耳医学に関する版権のすべて。5万フランは、鹿島茂によれば、今日の5000万円相当とか。
 おらー、借金しか残んねーぞー、どうやってそんなに稼いだべか。