更なるテキスト・クリティーク

 セガンの教育方法は子どもの器官との合一性を強く訴えるものである。しかしーこの「しかし」はセガンに異論がある「しかし」ではなく、そうなのだとうなづくだけの読者であるぼくの方の教養・技量の大きな不足によって誕生する自己懐疑の「しかし」であるー、たとえば話し言葉の発達の問題に触れて論じられたとき、ぼくの方の困惑の念がむくむくと大きくなってしまう。中野氏訳(これがまた曖昧)で引用すると、
「いまや、直接に話し言葉の発達を問題にする。たとえ、話しことばに関する現代の理論が学問になっているとしても、とりわけ聾唖のために創設された理論がそうであるとしても、完全に反対の原理に組しているこの私が、いくら異なった結論に達してもおかしくないと思う。たとえば、聾唖者の話しことば教育のさい、おそらく、理由があるのかもしれないが、身振りよりも触覚に重点が置かれているし、さらに幾人かの教師は、発話を生み出すため、いわゆる音声と語の構音との間に作用する融合化を重視し、喉音をもっとも安易なものとして、ためらうことなくまず教えようとしている」
という箇所の、とりわけ後段。何か適切なるテキストはないものか。聾唖教育はかじったことがないからセガンが言わんとしていることも、フーン、でしかない。これでは研究は進まぬ。せめて、セガンが事例としてあげている聾唖教育の具体を示すものはないのか。
 あれこれとネットをさ迷い歩き、ナンシー聾唖学校創設者のJoseph Piroux(1800-1884)の業績に行き当たる。彼は聾唖者のための「読み方テキスト」を編んでいる。そしてそのテキストは開示されている!セガンの批判を裏づける文献との出会いということだ。実践的なものとの出会いは、おそらく、初めてのこと。