悄然の承前

 休日の研究室へ。
 こわごわPC作業。持続的な作業は不可能とわかる。可能な限りデータ保存の作業を行う。断続的なため結構根気が続くのは皮肉か。
 セガンの1856年論文の人物注釈をつける中でいろいろとわかってくることがある。イタール亡き後師事したエスキロルに関して。先行研究の中にはエスキロルがビセートルの主任医師であったと記述し、セガンがエスキロルのところに通ったとあるところから、1840年にはビセートルで白痴教育に取り組んだとしているものがある。ぼくのセガン入門期ではそのように教わった。しかし、エスキロルはラ・サルペトリエール救済院での勤務の後、シャラントン精神病院院長を務めている。これは肩書き上は死ぬまでそうであった。となると、セガンがエスキロルのところに子どもを連れて行き、また、エスキロルが治療訓練にかかわっていた子どもをセガンが預かって教育をした、ということをどのように説明するのか、という問題になる。『パリの医師たち』という書物を紐解いていたら、エスキロルは公務の傍ら私設の病院を創っているという。サルペトリエール病院の近くになる。きっと、ここに、セガンは通ったのだろう。