思わず叫ぶ、「大発見!」

 大学院生の時にいただいた研究入門期の研究方法が今になってぐんと生きていると実感する。それは注釈を付けるという仕事だ。
 倉沢御大からの御下命で『近代国語教育論大系』『国語教育史資料』に収録する原典に注釈を付ける作業をした。無教養を地で行っていたぼくとしては注釈を付ける項目さえ見つけることができない。分かりもしないのに分かった気持ちになって読み飛ばす。いくつかの注釈候補をチェックし手元にある書物・雑誌・事典で注釈文を仕上げ、御大に提出する。御大は黙ったままだ。それでいいのだな、何だこんな仕事、と思った瞬間、御大の研究机が激しい音を立てた。「アホはアホなりに利口になろうとするものなのだがな。」ボソッと御大がつぶやき、資料がつき返される。「分かった気になるな。とことん分からないと思え。そしてそれを調べろ。」こうして「原典を読む」ことの方法を教わり、必然的に原典のバックグラウンドに対する知見が広がり深まっていく。
 セガン研究では端から分かったつもりも何もできない。何も分からない。だから逐一こだわって調査をしてきている。その繰り返しでさらに今まで手に負えないからと投げ出していたことへの道が開かれそうな感がする。
 セガンが私立学校開設願いを公教育委員会に提出した。それを受けて委員会はセガンの実践を検証し、学校開設の認可をする。その時にセガンに付けられていた肩書きは「医学博士」。公文書にそう書かれている。今までこれはセガンが偽称した可能性があるとぼくは考えてきた、根拠は何もないのだが。ところが、セガンが1856年論文の中で触れているLuretという人物をあれこれ調査していたところ、植民地政策の一環としての医学・薬学問題を扱う第2階級軍医のLuretが、薬学上の理論的なバックボーンとしてDr. SEGUINが存在すると、論文の中で書いている。この論文は1825年のこと。そうすると、当然のことながら、Dr. SEGUINなる人物は我らがセガンではない。Dr. SEGUINはArmand SEGUINといい、1875年パリに生まれ1835年パリで亡くなっている。医師で化学者。この時代、医師が私的にエコール(学校)を開設しエデュカシヨン(教育)をすることはさして不思議なことではなかったわけで、公教育委員会が我らがセガンと亡くなったという情報を持たなかったDr. SEGUINとを同一人物であると認識した、というのが実相であろう。
 我らがセガンは、公文書上、1842年まで「医学博士」という肩書きが付けられた。