昨日の続き?

 セガンの第2著作の表題は、丁寧な日本語で言えば、「ご子息の教育についてのO氏への助言」となる。誰が「ご子息」に教育をするのか?『エミール』の場合には、ルソーがエミールの家庭教師となっている。セガンの場合はどうなのか?セガンではない。書き始めからずっと、onである。そして時々maïtreという主語が用いられる。この場合は、匿名者が「ご子息」のmaïtreだと理解することができる。「子どもに対するmaïtre役」の匿名者。『エミール』の場合は「私」すなわちルソーである。
 もう第2著書翻訳の終わりが見えた昨日、匿名者が誰であるかが解決した。vous、あなた、すなわち、O氏である。O氏自身が子どもの教育をすることを前提としてセガンはこれを書いている。精神論的教育論ではなく実践論的教育論である。ひょっとしたら、この気づきはかなり重要なのかもしれない。19世紀半ばのフランスブルジョア(ないしは裕福な貴族)家庭の子どもの教育に父親がかかわるということはありえたのだろうか。男性家庭教師ではなく父親自身が子どもの教育をするということ(しかも幼児教育的な内容と方法)に、ぼくはある光景を重ねる。それは、1880年の『教育に関する報告』のなかで、セガンが幼少年期、父親から「遊び」などを教わった、と回想していることだ。それを『エミール』の影響を受けたことだと書いてあるので、ぼくはそれを否定的に捕らえてきた。しかし、父親が子育てに参加するというのは、「遊び」を主導するという習俗的なことではありえたわけである。
 翻訳を終えたとき、改めてこの問題を考えることにしよう。