再現から始まる

 週刊新潮の記事ー朝日新聞支局襲撃実行犯と称する者の「告白」記事が事実とは違っていたことで決着がついた。あの手の「歴史上の大ホラ吹き」には研究の聞き取りで何人とも無く出会ってきたから「やっぱりね」というのが個人的感想。大ホラ吹きのくせに妙に正義感ぶるところも似通っていておかしい。
 ホラとは思わず説を信じ込んで世界観を構築するということはごく日常的なことであるが、我が研究の世界ではそれはあってはならないはずである。「検証に検証を重ねる」ことが当たり前。だけど、その当たり前が通用しないのだと思わされてきたここ数年。セガン研究の世界がそれだ。哲学の部分だと大いに論争が必要であろう、たとえば、セガンはその教育観においてルソーを下敷きにしていたかどうか、ということなど。しかし、セガンのフランス時代(半生)についていえば、大ホラに振りまわされてきたのがこれまでの研究史だろう。そのホラの源がセガンの口ぶりの解釈でもあるから、研究の方法論を鍛えられる。そのいくつか。
1.(セガンの)父親たち、母親たち、とりわけ父親たちはルソーの『エミール』に倣って子育てをした、との回想(1876年著書)
 これが源となって、セガンの中のルソー的なものを探す研究が為されてきた。誰も、セガンの言っていることの真意について検証をしていない。回想されている事実は習俗の類であることも、誰も言及していない。
2.セガンは内務大臣の要請を受けて公共機関での白痴教育の教師として着任することを受諾した。
 セガンが「内務大臣の命によって」公共機関での白痴教育を行った、と書いていることを根拠としている。もっとも、微妙に異なった表現を用いて、同じことを何度か書いていることは、ちゃんと押さえておかねばなるまい。「1840年、内務大臣がパリの救済院で教育(訓練)と精神療法に関する私の方法を適用することの許可をくださった」という表現もある。ただし、「セガンから願い出て」という文言は一言たりとも述べられていない。
 いくら後の世でセガンが白痴教育の先駆者として賞賛されようとも、その時代は医学博士でもなく、経歴もはっきりしない20代の青年でしかない。実績はほとんど無い。その青年をどうして内務大臣が直接命令・許可するのか。その「どうして」こそ、明らかにされるべきだろうに、あらゆるセガン研究者は行っていない。某氏との会話で、「いくら後の時代に高く評価されるほどの実績を作っていたとしても、その時代も同じ評価だった、というのは解釈が過ぎませんか?」と申し上げたことがある。その場ではいたく叱責されたのだった。
 検証に検証を重ねてこそ一つの「事実」が浮かび上がってくる、そういう思いは今も強くある。