視覚的実感

 エドゥアール・オネジム・セガンが精神医学者以外として初めて白痴教育を開拓した時代、その場所については特定することができた。誤った研究史の理解を正すことができたのは、ささやかなことだが、誇りとしていいだろう。当時の地図で当時の場所を書き込むこともできた。ことばとして知っていたとしてもそれがどこにあるのか、現況はどうなっているのかが分からなければ、歴史研究として、意味がない。
 もう一ついえることは、当時を立体構造的に再現できることも必要であるということだ。
 1843年の実践の場であった現ビセートル病院、当時男子養老院(ビセートル救済院)を立体構造的に再現できないものか。写真はまだ使われていない時代、イラストを頼りとするしかない。文献をあれこれ探る・・・。
 ビセートル近辺は広大な石切場であった。パリの「カタコンブ」とつながっている。

 手前に石切場、遠景にビセートルが描かれている。

 ビセートル内部の一部病棟の様子。ロッジアと呼ばれる建築方式の部分。現在のビセートルにもロッジアが残されている。

 白痴とてんかんの子どもが収容されていた棟。セガンと同時代の建物の写真より。セガンは白痴とてんかんとは一緒に教育できないと抵抗した。罷免された源の一つである。
 そして、

 ビセートル内の「白痴の子どものための学校」である。一説では100人を超える白痴の子どもの教育に携わったというのだから、こんな狭い空間ですべてが可能であるはずはない。プチ・エコール、グランデコールとの名称の空間が平面図に描かれているので、このイラストは白痴学校の一部を示すものであろう。

 ビセートルの前の赴任地フォブール・サン=マルタン男子不治者救済院についての具体的情報はほとんど無い。視覚的実感を得る史料にはまったく行き当たっていない。しかし、現況(レコレ国際交流センターが入っている)のファサードと内部中央階段、天井とは18世紀のままだという。建物の内部構造は変わっていないと見ていいだろう。
 このフォブール・サン=マルタン男子不治者救済院を、セガンをフランス社会に復権させたブルネヴィユが国会(下院)演説(1889年)の中で「セヴル通りの不治者救済院」と誤って報告した。セヴル通りの不治者救済院は女子施設であり、1840年代中頃に女子養老院(サルペトリエール救済院)に統合された。研究史の過ちの根は、じつは、もっとも良きセガン理解者であったブルネヴィユの国会演説にあったわけである。