第2次世界大戦の敗戦の校長記録
熊本市教育センターのご協力をいただき、戦後教育実践史に関わる史資料が大量に並べられた。写真はその作業中。
大量の資料の中から、ぼくは、かねてから求めていた「教育現場が敗戦を迎えた時」を知るべく、ある学校長の記録(日録)の頁を繰る。
1945年7月1日、死者469人、負傷者552人、焼失家屋約11,000戸の犠牲・被害を出した熊本空襲の日は次のようである。
上段が学校記録、下段が記録者(学校長)の所感。落ちくる爆弾と火と煙を上げる街並みのイラストが生々しい。「畜生!/とうとう、来やがったか・・・/なにくそ!/これしきの事にくたばるものか!・・・」
8月6日、8月9日の原爆投下/被害の事は当日の日録には現れない。次は風雲急を告げつつある日本の教育を学校現場で預かる身である校長の心的様子が分かる記録。
そして「敗戦」のその日・・・。
斜体強調表現の「聖断下る!」。ぼくが聞いてきた読んできた「敗戦」の日のイメージは全くない。天皇が「敗戦」を告げたその瞬間から「それ以前」と「それ以後」とはまったく異なる価値転換の具体像はここにはない。そしてないのが当たり前、校長のこの一言の記録こそが、本当の信条なのだろう。
臣民教育を預かる教育現場の責任者として、どういう風にこれまでをくくり、これからを見通したらよいのか、8月15日の夜は悶々としたことだろう。そして、翌16日、「8月15日正午、これから仇討ちの始まる出発の時だ。云々」と書き記し、「仇討ちは、国体の精華発揚、科学振興、生産増進」と結ぶ。内的な国力の増強を意味する。教育の重大性を語っていよう。しかし、17日は次の通り。
斜体で次のように書いている。「国体護持!/どうしても腹の虫が収まらぬ。/一度は思ひ返してみたものの・・・/最後までやるのだ-/一億総斬死だ。/このまま生きて/どこに生き甲斐がある。/やらせてください。/許して下さい。」
まさに精神の混乱状態を見る。そしてこれが通常であったのだろう、校長という要職にあるから強い表現ではあるが。
8月の末になると、「新日本の建設」をのぞんだ記録となっていく。間違いなく、「敗戦」を抱え込みながら、「敗戦」から次第に遠ざかっていったのである。