パリ、ピガール通り

 セガンが公教育大臣の認可を得てピガール通り6に寄宿制学校を設立したのは1840年1月3日。28歳になろうとしていた時のことだ。
 ピガール通りはセーヌ川右岸、パリの北部に位置する。セガンの時代のパリの地図より。上部の赤い囲み線がパリ市の境界。シャルル10世城壁(徴税請負人の城壁)という。現在は残されていない。城壁の北部にMONTMARTRE(モンマルトル)の文字が見えるが、当時はパリ市郊外であった。ピガール通りはモンマルトルへと向かっている。

 ピガール通り近辺を拡大する。黄色い線が描かれている。黄線はルイ16世城壁。ぷくっとふくらんでいる辺りが、セガンが開いた学校があった辺りである。学校は共同住宅内に置かれた。

 ふっくらとした黄線囲み中央部に Poste aux Cheva とある。ChevaはChevauxの略記。郵便馬車の発着場「宿駅」である。その場所はピガール通り2であった。ピガール通りは、上の地図では、建物(宿駅)に沿って斜め右上に進んでいる。宿駅は1830年にサン=ジェルマン・デ・プレからここに移設されたというから、セガンの学校のすぐ側にあったわけである。(番地数字は偶数列、奇数列で、1建物に1番地がつけられる。)
 ピガール通りとはどのような環境であったのか。現在は北に進むほど歓楽街となっており、東京に例えれば歌舞伎町の一角という感じだろう。異邦人にとっては決して安全な場所ではない。真っ昼間、ぼくは、売春婦に声を掛けられた、と言えばわかるだろう。
 セガンの時代は果たしてどうだったのだろう。18世紀の記録ではオペラ座の踊り子や舞台女優が囲われた妾宅が数多くあったという。それらはすべてメゾンつまり一軒家(邸宅)であり、まだ共同住宅は進出していなかった模様である。19世紀前半期、つまりセガンの時代には、邸宅が減り共同住宅が進出していったのだろう。セガンの時代の実際を語る資料には、未だ、お目にかかっていない。

 さて、この地図の余話。
 ナポレオンIII世によるパリ大改造(オスマン改革)以前のパリの地図がほしい!複製された古地図集を所有してはいるものの、紙質はどうだったのかに始まり色具合はどのようなものかに至るまで、「文化財としての地図」への憧憬は強かった。
 定宿のあるモンジュ通りに新しい古本屋ができた。さっそく訪問したが、「まだ店を開いたばかりなので、ここにはあまりありません。どのようなものをお望みですか?探しておきます。」という若い店主に、1800年代前半期のパリを知ることができるもの、できればパリ地図を、と応えた。
 後日訪問すると、2枚の古地図が用意されていた。1枚は裏打ちされており、下水道が描かれている大型地図、1枚は裏打ちされておらずペラペラでパリの城壁の推移が色別で描かれている先の地図の半分ほどの地図。前者はコレラ来襲に対する都市計画を知る上で貴重なものだし、後者はパリの変遷を知ることができる、これまた貴重なものである。セガンの足跡を訪ねるのには後者を活用した。前者は医学史上の「衛生学」の成果に基づく設計思想を知る時が、やがて来るものと信じている。
 
「貴重な資料でしょ?なのに、なんですか、地図の上に色鉛筆でいたずら書きをして。」某氏の言である。