パヴェ―石畳

 パリ入りしたぼくはルーヴル宮殿の中庭の石畳(パヴェ)の美しさに魅了された。

 それ以来、ぼくはネット上のハンドルネームを「石畳の夕鶴」と名乗るようになった。夕鶴は単に禿頭を象徴しただけである。それはともかく、ぼくは、まさしく石畳命とばかり、パリ散策の目的に石畳を求め、また石畳にまつわる歴史なども求めるようになった。何しろ、50代半ばになるまでフランス文化などかじったことも無い者だから、「恥」という概念は全くなく、好奇心だけで動き回った。道や広場に定形の石を組み合わせているだけと思っていた当初のぼくであったが、それが大間違いであることに気づく。

 写真を斜めに区切っている二本の石組みは、水流のためにある。そして水流はあとるところで集中され地下水道へと行く。ぼくの知っている概念だと側溝ということになるのだろう。このことに気づいた後は、雨の日に側溝であることをわざわざ確認に行くという次第。すべての石畳がそのような設計思想なのかどうかを、確かめたかったのだ。

 ぼくの石畳命は、やがてパリ・コミューンの中に石畳の語る事実を見いだすことになる。
 次は有名なユゴーの詩(拙訳)

 

流れた罪深い血と清らかな血で染まる
石畳の真ん中の、バリケードで、
12歳の子どもが仲間と一緒に捕らえられた。
―おまえはあいつらの仲間か?―子どもは答える、我々は一緒だ。
よろしい、ではおまえは銃殺だ、将校が言う。
順番を待っておれ。子どもは幾筋もの閃光を見、
やがて彼の仲間達はすべて城壁の下に屍となった。
子どもは将校に願い出た、ぼくを行かせてください、
この時計を家にいるお母さんに返してくるから。
―逃げるのか?―必ず戻ってくるよ。―このチンピラ
怖いのだろ!どこに住んでるんだ?―そこだよ、水くみ場の近くだよ。
だからぼくは戻ってきます、指揮官殿。
―行ってこい、いたずら小僧!―子どもは立ち去った。―見え透いた罠に填められたわ!
それで兵士達は将校と一緒になって笑った、
瀕死の者も苦しい息の元で笑いに加わった。
が、笑いは止んだ。思いもかけず、青ざめた少年が
ぶっきらぼうに戻って来、ヴィアラのように堂々と
壁を背にして、人々に言った、ただいま、と。

 

愚かな死は不名誉である、それで将校は放免した。

 

 最後の1行が除かれて史書に登場する時、その史書の編著者は、明らかに「指揮官側」(つまり、ヴェルサイユ政府側)を憎悪の眼で描こうとしていると言える。そしてそのことはユゴー歴史観をゆがめて伝えてしまうことに荷担する。「ユゴーは、民衆の味方であり、パリ・コミューンの味方であった」と。

 石畳で繰り広げられて歴史の真実をぼくは求めたい。もうすぐ、石畳にあえるのだなぁ。

HPにパリ・コミューン関係をアップ