続 パヴェ


手前から突き当りまで石畳の小路になっている。そして奥から手前にかけて高低差があり、手前が低くなっている。小路の中央に大きめの石が敷かれて左右が区分されている。なぜこうなっているのかについてはこの小路全体が中央に向けて下がっているということでから、排水を考えた上での設計に基づいているという説明でいいだろう。言ってみれば、路が排水溝の役割も果しているということになる。
 ところで、この道はパリではどのような名称なのだろうか。パリ4区village ST. PAUL辺りをぶらついていた時に撮したものなのだが、残念ながら通り名を記録していなかった。詳細なパリ地図で確かめてもみたが、名前は書かれていない。建物の内庭に通ずる小路であったことは確かだ。今度のパリ滞在中に必ず立ち寄ってみようと思う。

 次は突き当たりの給水栓(フォンティーヌ)。
 パリには数多くの水汲み場がある。その歴史は中世に遡ることができるが、給水栓と呼ばれ、歩道の敷石の高さで水が出ていたという。飲み水、洗濯水を汲む仕事は主として女性。石畳の路にひざまずき前かがみになって小鉢で水を掬い取り水汲み桶に移していたわけだ。桶がいっぱいになったらやっこらやっと台所や洗濯場まで運ぶ。重労働だったろう。給水栓に水道栓を取り付け路面から50センチほどの高さまで上げ、水汲みという重労働をかなり軽減するようになったのは、ようやく19世紀に入ってから。ナポレオンIII世の命を受けてセーヌ県知事だったオスマン男爵はパリの大改造を敢行する。フランス・パリが名実ともに「近代」に突入した象徴でもあるこのパリの大改造は、水道栓をも改造してしまった。いまもパリのいくつかのところに残っている広場の飾りがつけられた給水栓のある水汲み場の歴史はそれだけでも歴史を遡って検証される必要があるだろう。ここでもナポレオン・オスマンは活躍している。が、何よりも人々の日常にまで食い込んで行った改造は、この写真に見られるように、建築物(多くはアパルトマン)の壁に水道栓を設置したことである。そして、その下にやや広い空間を設け、おかみさん連中がそこで直接洗濯ができるようにした。女性を、水汲みの重労働、そして水運びの重労働からかなりの部分を解放したことは、女性の社会参加の機会を増加させるにいたる。いま女性の重労働と記したが、水汲みや水運びの仕事は、子どもたちの手にも委ねられていた。文学にその場面が多く綴られているが、19世紀を出したついでに言えば、Victor HUGOの“LE MISERABLE”(レ・ミゼラブル)で、ジャン・バルジャンが終生愛しんだ少女・コゼットと出会うのも水汲み場である。もちろんこの小説に登場する水汲み場は自然湧水の泉であり、水道栓のところではないのだが。

 水にかかわる重労働から女性や子どもを解放することにつながる水道栓。そこに集っておかさんたちはどんな世間話を交わしていたのだろう。亭主の悪口、世相に対する愚痴・・・・・生きる喜び、こもごも語り合ったことだろう。女性や子ども解放の歴史は人間解放の歴史だ。大都会にひっそりと顔を隠している水道栓に改めて敬意を表するしだいである。