無知から出発

 ビセートルでの精神病者の治療の歩みを追ってみた。
 ピネルが井戸の水汲み作業、次のフェリュスが農作業。作付、収穫までおこなう。続いてルール、フェリックス・ボアザンにいたると、治療が精神に及ぶ。セガンが独力で白痴教育を手掛ける時と重なる。ルールらは、精神病者が利用する図書室を作り、また、音楽を楽しませた。小さな劇場も作られ、精神病者たちが演じたという。18世紀末から、1830年代までのことだ。
 こうした前史があり、白痴とてんかんの子どもを対象とした学校を院内に創設し、教育者を招いて教育を出発させることになった。1839年の終りのことである。どれほどの子どもの数がいたのか。そもそも子どもとはどの年齢を言うのか。その辺りは明確には分からない。患者年齢別構成を見ると、20歳未満までがひとくくり、それ以上は10歳ごとにくくった統計があるので、子どもとは20歳までを言うのだろうと推測できる。それだと、白痴・てんかん総数が約50人である。
 学校の壁面には、地図、アルファベ表、生徒が描いたクレヨン画が貼られてあり、算数と書き方の勉強のための机が用意されていた…任用された教師の名前は分かるのだが、その教師の来歴・業績等は今のところ不明である。1年間だけ雇用された模様なので、セガンはその後任であったのだろうか。その辺りを記述している公文書が見いだせればいいと思う。
 訪問者の記録にこのようにある。
 …まだまだたくさんの歴史が隠れているのだ。

 これで、旅の研究課題の一つが明確になった。