今更ながらのとんでもない気づき

 セガンがフランス時代最後の白痴教育現場はビセートル救済院(男子養老院)だった。1843年のことである。救済院総評議会の招聘決定書の第1項に「セガン氏は、1843年末まで、氏が不治者救済院の白痴の子どもたちに適用していた教育の方法の試みを、養老院(男子)の多くの白痴の若者たちに対して為すために、引き続き招聘される。」とあることから、彼が教育に関わったのは子どもたちであったはずである。
 ビセートルには「エコール」(学校)が1839年末に創設されている。当然セガンはここで1843年の約一年間、子どもたちを教えていたと考えてきた。それで、このエコールと称されている実際はどのようなものであったのかを、昨日から調査(文献)を開始。シューが『パリの秘密』で描いていることが導きにはなってくれていたが、やはり、史資料に則っての記述がほしかった。
ぼくにしてみれば、とんでもないことを発見した。というのも、エコールでは、その発足時に、一人の教師(instituteur)が救済院総評議会管理者によって任命されている、というのだ。とうぜん彼はセガンではない。この教師が行った教育がどのようなものであったのかを注視してみたい。そして、それがセガンの教育とどのように違うのか。「世界で初の白痴の教師」という冠をセガンにかぶせることは、おそらく、間違いであろう。
 セガン研究の本質に関わる重大問題である。