セガン、再々々々

 オネジム=エドゥアール・セガン没後100周年の1980年前後は、国内外で、セガン研究が盛んになされた。ここに紹介したセガンの第2教育論「子息の教育についてのO氏への助言(CONSEILS A M. O…. SUR L’ÉDUCATION DE SON FILS.)」の翻訳をはじめ、セガンの教育論に関する翻訳紹介がなされている。この頃のセガン研究、とりわけライフ・ヒストリーに関しては、史資料の収集活動がようやく始められたという状況であったこともあり、それから30年後の今から見ればずいぶんとずさんであり、かつ解釈が過ぎていたように思う。
 セガン白痴教育のフランス時代の活動の姿、活動の場などは、セガン自身がその代表的な『1846年著書』に明記している。次のようである。 (同書pp.323-324)
(1)エスキロルの指導を得ながらイタールを模倣した事からセガンの白痴教育の足跡が刻まれることになる。続いて
(2)ピガール通りのアパルトマンというつましい施設で独力での実践、さらには
(3)不治者救済院での実践で子どもたちの成長・発達をなし、そして
(4)ビセートルに舞台を移して白痴教育に取り組む。しかし、それも最終的には罷免されることで、白痴教育の場を失ってしまう。その後は、
(5)かつて教育を取り組んだ子どもの家族からの相談に与った、というのである。
 これほど明瞭にセガンが自分の足跡を描いているにもかかわらず、やれサルペトリエールで白痴教育をおこなっただの、ビセートルを追われた後はピガールで学校を自力で開いただのの諸説が語られてきた。その諸説を成り立たせる史料類の発掘があったかといえば、な い。
 サルペトリエールでセガンが教育をしたというのはアメリカと日本の研究者を中心にして語られてきた。パリの医療・福祉に関わる施設史を紐解けば一目瞭然のことなのに。ちなみに、セガンの時代、サルペトリエールは女子養老院、ビセートルは男子養老院が公称であった。それに対して不治者救済院は男女それぞれあり、それぞれが位置する通り名が冠につけられていた。
 また、ビセートル後ピガールに学校を開いたというのは、セガンをフランス社会に復権させたブルヌヴィユが言うところに源があるようだ。   ・・・・

 2012年はセガン生誕200年。かつてのような熱気、活気あるセガン祭が行われるのだろうか。