今日はちょっと英語文献を・・・

 セガンの白痴教育実践の成立・展開過程の「形状」については新しい事柄は出てくることはない。いよいよ、その白痴教育実践そのものにチャレンジし始めた。が、どうにもこうにも、教養がないものにとっては道具なし、訓練なしにロック・クライミングの挑戦をしようとするのと同じで、でこぼこに切り立った岩山を見つめるだけで、とっかかりさえ掴む努力をする気力が沸かない現状。教育論ではなく、セガンの「白痴」についての認識を知りたい、と思い立ち、1866年著書(Idiocy and its treatment by the physiological method)の原典と邦訳書とを引っ張り出した。やはり医学的な定義などはさっぱり理解できない。頭蓋の形状や容量が白痴と関係する?・・イヤ、関係しないと言っているのだな・・・等々。投げ出したいが我慢我慢。ぼくにとって勇気づけられることばを見つけるまでは・・・・。

原著:
Does not the idiots, in making his silly gestures, tacitly say, "See what I am doing; if you know how to teach me better and more I would do it." ....
白痴たちは、言葉によってではないけれど、「ぼくがしていることを見てよ、ぼくがしたいことをもっともっとぼくに教えてくれる方法をあなたが知っているというのなら。」と、よく分からない身振りで、言っているのだ。・・・

原著:
The Grecians were using it to excess, for which Plato reprimands them, as well as for the other excesses in over-cultivating the intellectual faculties - the former maiking prize-fighters, the latter sophists. Nothing is so much to be desconntenanced as thes one sided education.
身体的訓練と知的訓練とのどちらかに偏るようなことがギリシャ人人たちの間でなされていた。前者ではプロボクサーを、後者では詭弁家を訓練するというような。プラトンはこの傾向を強く戒めていたように、このような一方に偏った教育は断じて首肯しうるものではない。
(やや意訳っぽいかな>
 この部分、人間の統一体(三位一体)の重要性を説く触りとなっている。かつて「全面発達」などとソビエト教育学を借用して語られたことと同じことを言っているとされる枕となっている故、注目すべき箇所である・・・なぁ。
 ぼくは「全面発達」派ではなく「全体的発達」派なのだけれど。むしろ、「全体的発達」として理解すべきだと思う。そして、セガンのこの慧眼は今日の我が国の教育界の現状に対する強い批判でもある。