息を吹き返そう!

 どうにも先に進む気力が萎えたため、貴婦人にSOS。ちょうど東京駅近くにご用があるとかで、お昼をご一緒していただいた。フカヒレ料理。あれこれ愚痴をこぼす。誠にどうしようもないやつだと自分でも思いながら、口からほとばしり出る。食後、丸の内界隈を、貴婦人のご用にくっついて、そぞろ歩き。ようやく先に進む気力が少し出てきたところでお別れし研究室へ。
 セガンはいったい何歳ぐらいの子どもを教育したのか?最初の子どもはアドレリアンという男の子で8歳だと思われる。同じ頃フェリシテという13歳の女の子を1年間引き取って教育をしていることが記録から読み取れる。1840年から開設したピガール通りの教育施設(学校)にはアドリアンを含めて3人の子どもがいたようだが、アドリアン以外の年齢は分からない。
 1841年10月からはファブ―ル・サンマルタン男子不治者救済院で10人の子どもの教育に携わった。今その記録を読み直ししている。前の訳文は誤訳が多いことに気づく。それはともかく、10人の子どもの年齢は、18歳、17歳、17歳、19歳、16歳、16歳、14歳、12歳、12歳、11歳。
 年齢層と言い人数と言い、それまでの経験を越える条件の中で、セガンは実践を進めたわけだ。取りかかるまでのプロセスを示す記録は発掘されていない。実践準備のためにどれほどの事前研究をしたことだろう。そうした成果が現れているのが実践記録(報告書)なのだ。頑張って読みましょう。

 ジャックマンという17歳の白痴の男の子。セガンに申し送られたこの子の特徴は次のようである。
《非常に長い手足、顔の前側と側面とで扁平な頭、ポカンと開けた口、動かずぼーっとした目、非常にくぼんだ胸、みごとなまでに曲がった猫背、あらゆる用途に完全に役に立たない手。》そして《しゃがんで一日を過ごす。身体をかがめ、手をポケットに入れたまま、身体を引きずるようにして歩く。その手には、仲間の食事の後でこっそりと探し当てた、ファイアンス陶器とかコップとかのかけらといったようなものが、大切そうに握られている。》
 これはセガンの手になる記録ではないけれど、こうした記述から、ぼくのこれまでの研究史の中でまったく存在しなかった<白痴>という概念の<事実>を感じ取っていかなければならない。もちろん、記録がおよそ170年前のものであるということは、承知しておくとして。

 卒業生来室。中高の英語の非常勤をしているが、研究者をめざして大学院に進みたいという。夢を叶えさせてやりたいが、現実(研究職が必ずしも保証されないことなど)について語る。それもまた、彼の人生選択の材料のひとつになることだろう。