分からない part2

 セガンは師イタール、エスキロルを批判する。とりわけイタールに関してはその哲学が間違いだとまで言う。では、イタールの死後約1年後に発表した第1教育論(エスキロルの添え書きつき)、第2教育論はイタール批判の上に成り立っているのか。
 セガンのフランス時代における実践方法論のコアは第1実践にみられる。これは間違いのないことだ。違いは第1教育論が個人に対するものであったのに対し、1842年以降の教育論は子ども集団に対してもものだ。
 『1846年著書』はセガンの白痴教育論の総決算。到達と言える。その中に、初期実践の成果が、方法論とともに綴られている箇所がいくつかある。この点から見て、セガンは、初期実践を白痴教育の到達のひとつとして捉えていると言えよう。このことは、ぼくのセガン研究の新しい発見。しかし、正直なところ、分からない。

「白痴病」という概念がピネルによって生み出されたのが19世紀初頭。1801年の著書に採用されているのは確認した。が、初出はそれより前のことだろう。それはidiotisme。
ピネルの弟子エスキロルによって「白痴症」という概念が生み出された。1838年の大著で詳細に検討されている。初出はいつなのだろう。それはidiotie。

セガンは、「エスキロルからイデーを学んだ」と書いている。にもかかわらず、彼は「年が若いが故に白痴病idiotismeに冒されきっていない子ども」というような表現をしている。このあたり、どういうことなのだろうと、考えてしまう。なぜ、idiotieではないのか。