「服従」ということ

 セガン研究の入り口で、我が国における研究の先駆者・清水寛氏から、セガンの白痴教育の近代史的先駆性について、しばしば教わった。「白痴は人間でないとされていた時代に、教育を通じて白痴もまた人間であることを実証した」というのがその趣旨であった。「白痴は人間ではないとされる時代」をどう読むか、今もなお、考え続けさせられている。その時、清水先生は、こうもつけ加えた。「これほどすばらしい人間観を持っているのに『服従』が大切だ、と言っているのですよ。」と。これもまた、考えさせられ続けている。
 そもそも「教育」とは「社会化」のために行われる社会的営みである。どれほど自由で自治的な教育を行っているというフレネ教育であっても、その到達は「社会化」である。教育史上、「教育」とは社会による目的的な誘導があり、それにふさわしい指示がなされる、それが「教師」によってなされる。考えようによっては、「教師」による「指示」に従わなければ、つまり「指示」に「服従」しなければ、「社会化」はおぼつかない。
 こう考えると、セガンは、白痴の子どもたちの社会化の可能性を求めたが故に、「服従」を重要な概念として定めた。だから、清水先生風に言えば、「白痴は人間であるからこそ社会化が求められる、社会化のために服従はなくてはならない資質なのだ」ということになる。
 国家主義的権威への盲目的服従を強いる機関だとして近代(学校)教育を否定し、破壊する思想と行動を、少なからず内包し続けてきたぼくの「近代学校」観を、セガンを通じてきちんと洗い直さなければならないところにいるようだ。
 ちなみに、「服従」とは、セガンの原語で、obéissance。「統治下に置く」というような意味になる。