次の2文を比較しなさい。源泉は同一のフランス文です。

1.社会階層の最上層にしか生活のゆとりが及ばないときに、そして人間性がまだその全一性を経験せず、人民を軽んじる貴族政治のもとで傲慢にも打砕かれたままになっているときに、キリストへの信仰によって支えられ、地上の科学の柔弱な伝統を用いて神の前での人類の統一と平等という優れた伝統を守ろうとする人びとにとって、唯一自由になるものは教育であった。後になって人間性がキリストを通して理解したことは、すべての人間が必要とされているということである。エスプリの渇望がそこで満たされる所の泉からくみ取ることができる者が、まだ富者に限られているならば、科学もまた財産によって独占されていたのである。しかし、このような不平等は時とともに消失し、われわれはその究極の結果にしたがうだろう。もはやすべての人民は読むこと、すなわち考えることができるし、またそうしなければならない。すでに教育は、それが粗末で不十分なものであったとしても、手の届くところに用意されるようになったのである。ペレール、アベ・ド・レペ、アユイは、誰もしのぐことができない奇跡を行い、そして彼らは模範として役立つにちがいない。これらの天才のおかげで、今日、聾唖者と盲人は教育の恩恵を被ることができる。そして私の良心の言うことを信じるならば、白痴者がこれらの人びとの後を続くことを延期することはできない。エスプリの平等という新しい時代であれば、それは遠くないことである。
 

2.実生活がまだ社会のヒエラルキーの頂点で回っていた時のことである。人間性はその基本となる統一を知らず、圧倒的に、民衆を軽視する貴族政治の足下で踏みにじられていた。そのようなときにあって、教育は、キリスト教の祭壇によりかからせる人びとの特権であり、、世俗の科学の弱まった伝統と共に、神の前ではすべてが統一され平等であるという伝統を持ち続けていた。後に、人間性は、キリスト教を通して、すべてが約束されていると理解するようになる。精神を満足させる源泉をくみ取ることができるような者は金持ちしかいないならば、科学もまだ資産家たちの独占であったのである。こうした不平等は時とともに消失し、われわれは最終的な結論を得ている。実に、人びとは、すでに、読むことの権利と義務とを得ているのである、すなわち、考えることの権利と義務とを。そればかりではない、教育は、非常に粗末で不十分なものであるにせよ、特別な創造物の手の届く所で為されているのだ。彼らはその身体の障害の故に、人間の精神の進歩に関与することが不可能に思われてきたのだけれど。ペレール、ド・レペ師、アユイは誰もが凌駕できない奇蹟を為している、....彼らはモデルとしての役目を果たすにちがいない。こうした天性の人たちのおかげで、聾唖者と盲人は、今日、教育の恩恵を被ることができている...。そして私の考えるところによれば、白痴者たちはそれに遅れていることを、つまり、精神の平等という新しい生活にはほど遠い所にいるということを、知らされるばかりである。