続、ひょいとつられてどんこではねる

 雑誌教育5月号書評欄執筆終了。編集部と印刷所に原稿を送付。
 書評対象は、清水寛・近藤原理編集、城台巌写真『写真記録 この子らと生きて 近藤益雄と知的障がい児の生活教育』、『写真記録 子どもに生きる 詩人教師・近藤益雄の生涯』
 以下は書評のコアとなるところ:
 両書には、近藤益雄の<世界>が研究者や家族、関係者等による文筆と写真とで描かれている。とりわけ土門拳門下リアリズム写真集団の一員である城台巌による各写真ならびにエッセイは、益雄像を活写していて、感動を呼び起こされる。たとえば、『この子らと』では、85ページ、益雄が子どもの頭を抱き自らの頬を子どもにくっつけ書写指導をしている写真は彼の教育方法の原風景を表しているし、127ページ、三輪車を泣き顔で牽こうとする子、その後ろで益雄がそれを引き留めている後ろ姿の光景は、施設に面会に来た保護者との別れの切なさをみごとにえぐりとっている。また、『この子らに』では、206ページ「書斎の益雄」と207ページの「のぎく学園の益雄の書斎」とがとりわけ目を引く。後者の写真が実践記録の山が創りだす幾何的空間であるに対して、前者は小さな机に向かって書き物に没入している益雄を撮った写真で、画面ほぼ上半分空間が光で真っ白である。この2枚の写真は益雄の精神世界を丹念に切り取っているように思う。
 城台は益雄のデスマスクを前にして、「特異ともいえるあの無垢純真、子どもに生き、子どもに死す。」と表した。まさにその益雄を描ききっている城台のリアリズム手法に感動せざるを得ない。城台は、益雄と益雄以外・以降とを撮り続けて48年に及ぶ。「本質に迫る」ための先駆けとなった写真は、益雄から実践を撮影することを拒絶された時の、「ふと仰いだ青い空をバック」にぶら下がっている白い大根であったという(城台巌「カメラのなかの近藤先生」『この子らと』所収)。
 しかし、このように写真が主張するリアリズムと、写真に添えられたキャプション(恐らくふたりの編集者の手によっているのだろう)に匿名を要求する「個人情報保護」とのアンバランス(大月書店版では実名記載であった)。城台リアリズムの思想・方法が弱められさえするように思う。本書を通読して最初に痛感した強い違和感であるが、このことは、本書の責任ではないのだろう。
 
 某氏は「厳しい批判を」と言われるが、字句訂正程度で「再版」を夢見ているお方に対してはなにをかいわんや、の気持ちである。それにしても、戦前教育史研究の「古さ」には、あれほどお話ししたのにほとんど理解されていないな、という思いがある。