訣別か?  少なくともぼくの意識では

下記をファックス便にて今朝送付。今もなお返信はない。

 昨日は失礼しました。また、これまでの数々の無礼を深くおわびいたします。
 私が今もなおこだわり(先生の史観にたいする)を持つが故の失礼であったことをお詫びいたします。今後はこのようなこだわりを棄てて参るつもりです。
 pp73-74、○○の子ども観・教育観は・・・・から、・・・・(へ)という立場に大きく傾斜していった。
 私は、これに対して、「本当ですか?」と朱筆を入れました。これについて、明快な論理を、来るご著書で拝見できることを、楽しみにしております。「『赤い鳥』から生活綴り方へ」が成立しない、というのは、『赤い鳥』誌と「生活綴り方関係」誌とに同時並行的に寄稿していた、という現象について申し上げることが、私の主張の本質ではありません。先生は『赤い鳥』の綴り方教育をどのように理解しておられるのでしょうか?○○が寄稿していることを確認しただけでしかないように、私には映っております。このことについても、現行ご本の改訂においてではなく、新しい研究成果のご著書にて拝見できることを、楽しみにしております。
 研究とは自分の足を使って先人の歩いた道を重ね歩き、さらに新しい路を発見しあるいは築いていくことだ。もう40年も前のことになりますでしょう、先生からこのような厳しいお言葉をいただいたことを、とうてい忘れることはできません。
 ご壮健にてご研究を進められますことを、衷心よりお祈りいたします。