若狭蔵之助先生の訃報に接して

 「生活のある教室」の実践者で、我が国にフレネ教育の理論と実践とを導入し、教育課程に「学習」の持つ大きな意味を理論的実践的に解き明かすことによって、教育改革に大きく寄与したされた若狭蔵之助先生が亡くなられたとの報に接した。若狭先生は我が学習院大学教職課程で教鞭を執っていただいたことがある。ご病気のため先生のご講義はやむなく中止されてしまったが、学生を教材にする教育方法・教育観は強く引きつけられ、ぼくの今日に至る大学教育実践の根幹をなしている。もちろん、先生の足許にも及ぶものではないのだが。
 先生にお目にかかった最後は、すでに10年前。2000年度のサバティカルで帰国して先生のお宅に、研究報告に上がった。手には『diréctionとcontratで成り立つフレネ教育』の私家版冊子を携えていった。冊子は、学習主体であり、かつ教師がおり教室がありさまざまな文化(教具・教材を含む)がある・・・ということの意味を、ニースのフレネ学校、マルセイユのフレネ学校、セレストのフレネ教室、パリのフレネ教室などの参観記録を通して綴ったものであった。まだフランス語に通じていない時期であったので、全ては通訳を通した情報とぼくの教育学研究者としての目から得た情報での判断である。
 対面する若狭先生に絶望と怒りの表情が読み取れた。まったくフレネ教育のなんたるかを理解していない、それどころか曲解している、という先生のお心のように思われた。ああ、これで、尊敬する若狭先生とはお別れなのだな、と玄関に降りた。そして事実、若狭先生とは、それ以降、現実世界で直接お会いすることはなかった。
 フレネ教育研究会機関誌『フレネ教育研究会会報』に「フレネ教育研究のための覚え書き 『フレネ教育』はDiréctionとContratによって成り立つ」との表題で、先の冊子の要約論文を掲載していただいた(No.58, No.59)。No.59.に若狭先生が「覚え書きを読んで」という短文を寄稿されていた。読んで、ぼくの両目から涙が流れ出た。「これで、若狭先生とフレネ教育を膝を交えて論じることができる」と。しかし、その後、お見舞いにも訪問することが無く、訃報を耳にすることになってしまった。返す返す、ぼくの精神の弱さを痛感させられるのである。
 若狭先生の「覚え書きを読んで」(本文にはこのタイトルはない)を以下、再録しておこう。
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 「子どもが何を学ぶのか」「教師が何をどう教えるのか」については、私は「教師は教えない」「子どもが決めることだ」といって、川合(章)さんや中野(光)さんからひんしゅくを買ったことがありました。「教師が教えない」ということはあってはならないことで、「子どもが学ぶことを決める」というのなら自由分散的で学びは成立しない、と言われました。この問題をどう決めたらいいのか、以来ずっと私自身の課題でもありました。ところが、今回の川口先生のご論文「diréctionとcontrat」の追求はこの問題に理論的に学級現場を通して具体的に答えるものでありました。この「学びの方向性」と「契約制」の問題の立て方は、私たちの懐疑に十分答えるものとして驚いております。学びの方向性を誰が決めるのか、それは子どもの個にまかされるものなのか、「学びの共同」はどのような役割を果たすのか、日頃口当たりのいいあまり、十分吟味しないで使っているコンセプトについて、じつに見事に解明されている。何を学ぶのかということは、単に個人としての教師や子どもの任せられるべきではないとしたら、誰がその方向性を決め、どのようにして展開し進めていくのかが初めて明快に理論化された。しかも、その理論がマルセイユの公立小学校の教育的日常を通して把握されているのがみごとである。私たちの研究、参観は何であったのか、大いに反省させられる。そしてもっと広い国際的な観察比較の上に理論化される必要があるのではないかと思われる。なるほど現場教師の見方と研究者の見方は違う。フレネ研としては、その共同研究が課せられているのではないかと、つくづく思わされた。それが不可能とすればせめてこの論文をもっとじっくり読んで考える必要があるのではないかと思わされる。 (2001年4月17日記)
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 そして、ああ。なんたること!その冊子はもう無い。

 大学院「教育学演習」授業。院生1名。日本語教育を専攻しているとか。
 明日は清瀬。暖かくて晴れれば「お花見」の予定だが。