なんでだろう・・・

 若者の自由論〔主体性論〕を語ると、「先行世代のおかげで主体性のない若者にされてしまった」と反論する男子学生。「ゆとり教育」を肯定的に語ったら、「子どものうちは教室の中に閉じ込めて教え込まなければだめだ、父親がそういっているが、私も賛成だ。」と高唱する女子学生。いずれの文体からも、いらだちを強く感じる。「主体性がないようにされてしまった」という声と、「主体性を培うことなど不見識だ」という声とはまるで逆であるように見えるが、それぞれの文字群の向こうに、共通した世界観を感じてしまう。それは現実の中に可能性を見る、というスタンスをまったく持たないこと、そのスタンスで教師になったら、一体、どんな光景が展開されるか。一目瞭然。しばし考え込む。
 今日は教育方法・技術と教育基礎。ケネス・グッドマンの教師像を投げ込んでみるか。