セガン著作解題のために①②

○ セガン著作解題のために

① À Monsieur H….. Résumé de ce que nous avons fait depuis quaterze Mois. Du 15 février 1838, au 15 avril 1839. Imprimerie de Madame Porthmann, Paris, 1839.
セガン27歳の作品。拙著『知的障害教育の開拓者セガン―孤立から社会化への探究』(新日本出版社、2010年)では「第一教育論」としている。拙訳邦題「H氏へ/われわれが14ヶ月前から為してきていることの要約/1838年2月15日から1839年4月15日まで」 著者名は扉頁に無く、結びにÉDOUARD SÉGUINとある。脱稿の日付は1839年4月23日。本文全11頁。版元名ではなく印刷所名Imprimerie de Madame Porthmann(ポルトマン夫人印刷所)が記されているので自費出版であったのだろう。同印刷所はRue du Hasard-Richelie,8。当時のパリ2区。セガンが居を構えていた記録のあるサン=タンヌ通りを終点として交わっている。全長101メートルの短路である。本作品のオリジナル版は今日では閲覧不能であり、セガン生誕百年記念として1980年に刊行された『エドゥアール・セガン著作物』(’ÉCRITS DE ÉDOUARD SÊGUIN’, Groupement de recherches pratiques pour l’enfance, 1980, Saint-MANDÉ)に収録されたオリジナル・コピー版が唯一のよりどころとなっている。同書はFrançoise BRAUNER医学博士の編集になり、Alfred BRAUNERとAndré MICHELETが「まえがき」を寄せている。
 「第一教育論」の我が国への受容(紹介)状況について言えば、かつて松矢勝宏氏によって「われわれの14ヶ月の教育実践(1839年) ―その要約と結論」との邦題で、清水寛編、埼玉大学セガン・ゼミナール集団著『セガン研究』第3集(1977年)に発表され、中野善達訳『エドアール・セガン 知能障害児の教育』(福村書店、1980年)に再録された。
 本作品末尾には―署名の後に、いわば追記の形で―、Approuvé par M. le Dr Esquirol. Le 24 avril 1839. と添え書きされている。脱稿の翌日の日付となっている。Approuvé は動詞approuver(同意する、許可する)の受動形。「同意」なのか「許可」なのか、セガンの業績を論ずる多くの論文ではセガンとEsquirol(エスキロル)との「共著」とされてきた。セガンの代表著作 »Traitement moral, hygiène et éducation des idiots et des autres enfants arriérés au retardés dans développement, agités de movements involantaires, débiles, muets non-sourds, begues etc.. Chez J. B. Baillière, Paris, 1846. »(標題略記『イディオと他の遅れた子どもの精神療法、衛生ならびに教育』、拙著では『1846年著書』)での著者著書紹介で「14ヶ月間我々が為したことの報告 エスキロルとセガン 1838」という表記に見られるように、エスキロルとの「共著」であると疑わせるような紹介がされているから、「共著」でいいのかもしれない。しかし、私は当代を代表する精神医学者エスキロル博士の名を借用することによって同作品(=セガンの実践ならびに実践理論)を権威づけたと考えている。それはH.氏宅のアドレアンの家庭教師としてのセガンの主体、つまり家庭教師としての成果を雇用主であるH.氏に示さなければならない必然性がそうさせたのである。従って、この追記は「(本稿は)1839年4月24日、医学博士エスキロル氏の同意を得て(公開される)」と訳出すべきだろう。もっとも、セガン家庭教師説は私のオリジナルであり、Approuvé par M. le Dr Esquirolがセガン実践の権威付けとしての役割を持っているということもまた普遍的に認知されているところではない。
 なお、表題に言うnous(we)の当為主体をどのように特定すればいいのだろうか。セガン自身の上記紹介にあるようにセガンとエスキロル、あるいは著述に登場する人物としてセガンと実践対象であるアドレアン、とすることも可能であろうが、後々のセガンの著作にはnous (we)が多用されていることから、謙譲・謙遜表現として使用しているとみなすことがもっともふさわしいように思われる。

② Conseils à M. O… sur l’éducation de son fils. Imprimerie Porthmann, Paris, 1839.
セガン27歳の時の作品。著者名E. Séguin。ただし作品末にはEDOUARD SEGUINとある。アクサン記号は付けられていない。拙著『知的障害教育の開拓者セガン―孤立から社会化への探究』では「第二教育論」としている。拙訳邦題「子息の教育についてのO...氏への助言」、拙著に全文邦訳の上収録した。本文全13頁。脱稿の日付だろう、扉頁に29 Juin 1839.(1839年6月20日)と記されている。つまり「第一教育論」のほぼ2ヶ月後に刊行された。「第一教育論」と同じく、ポルトマン夫人印刷所による自費出版。前掲『セガン著作物』に収録されているもの以外にオリジナルを閲覧することは不能である。ただし、『セガン著作物』目次では ’Conseils à M. O. Sur l’éducation de son enfant idiot’ とあり、作品の原題にidiotが追加されている。『1846年著書』の著者著作物紹介も同様であった。
 我が国への紹介には、松矢勝宏・大井清吉共訳「E. セガン著『O氏への助言―彼の息子について』(1839年)の翻訳」(清水寛編、埼玉大学セガン・ゼミナール集団『セガン研究』第4集(1980年)、中野善達訳「O氏への助言(1839年)―(白痴である)ご子息の教育について」(中野善達訳『エドアール・セガン 知能障害児の教育』前掲書)の既訳がある。しかし、一部段落訳文欠落などの問題があり、セガン教育論を正しく理解する資料としての価値を低めている。
 「第二教育論」は、「第一教育論」と違って、実践記録ではなく実践の手引き書という性格を有している。これが綴られた経緯については類推の域を出ないが、「第一教育論」を何らかのきっかけで手にしたO...氏が子息の教育の為の手引き書の執筆をセガンに依頼したことにあるのだろう。「第一教育論」はアドレアンという子どもの教育=発達記録である。あくまでも個人記録であるが、これを読んだO...氏が、我が子に妥当する教育の為の手引きを2ヶ月程で書いてほしいと依頼した。セガンはその期限でアウトラインを書き上げた。O...氏はアドレアンの発達を知り自身の子どもの発達を願った。セガンの教育方法はそれが可能だと判断したわけである。セガンはO...氏のこの願いを受け止め、教育手引き書という一般化、普遍化の試みを、まずは机上で、続いて実践的に、為し、為そうと願った。その意味で、この作品こそ、セガンがイディオと呼ばれる子どもに為される共通教育のための開拓者としての第一歩を踏み出したものであると、理解することができるだろう。もちろん、その教育の順次性・構造性は「第一教育論」で描かれたとおりである。必ずしも満足がいくものでなかったことは「理論と実践とを隔てる距離は、この仕事が不完全であることを示している」と、手引き書で綴っていることで明らかである。アウトラインではあるが、理論も実践もきちんと綴り切れていない、否、理論も実践も不完全である、だから、子息の教育に実際に携わらせてほしい、と。
 ところで綴られている食文化がたいそう興味深い。①朝の散歩を終えた後のその日最初の食事は「少し火を通した羊の骨付背肉(ロース肉)」(冷めた薄切りでも構わない)」と「野菜」・「季節の果物」少々。「飲物はコップに4分の1のワイン入りの水」。コーヒー(あるいはカフェオレ)は禁じる。その後、軽い睡眠休憩と運動・作業。②2時の食事は「果物が幾つか」と「おやつ」(おやつが何であるのか明記されていないが、ボンボンのような砂糖菓子であろう)、③一日最後の食事は「最高の、滋養に富むもので、とてもおいしいポタージュで始められる」。これ以外の間食は果物であろうが砂糖菓子であろうが禁止する。主食のパン(バゲット、バタールなどのパン・トラディショネル)は記載されていないが、前提になっているのだろうか。
 18世紀から19世紀のフランス庶民の朝食にはコーヒーだけというのがほとんどであったというから、これから考えても、O...氏は経済的に社会的に恵まれた家庭を築いていたと思われる。
 給仕がいて一人ひとりに食事が供される食文化(イメージとしてはフル・コース)もあるが、一般的には大テーブルに家族がそれぞれ座り、テーブルの真ん中の大皿や大籠に入ったスープや食べ物・果物が置かれ、そこからそれぞれがそれぞれの皿などに取り分けていただく。家長による神への感謝・祈りが終わってから食事が開始される。
 セガンは『1843年著書』(後述)で、イディオの子どもは無限定に食材を自分の皿に取るので、それは戒めなければならない旨を綴っている。セガンの師とされるJ.-M.-G.イタールの実践を映画化した『野性の少年』(邦題)では、イタールと世話人のゲラン夫人と少年ビクトールの食事場面が描かれているが、それが19世紀フランス家庭の食事光景の基準であろう。ゲラン夫人が各自の皿にスープを盛り分ける。】