セレスタン・フレネ

 ぼくが「フレネ教育」そのものと「出会った」のは1996年のこと。生誕100周年記念行事に参加し、フレネ学校を初めて訪問したことが始まりである。知っているようで脇に置いてしまってきたフレネ年譜を改めて紐解いた。
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セレスタン・フレネ(Célestin FREINET)略年譜
 出典:BT histoire Célestin Frenet et l’École moderne, 1996, pemf.
1896年10月15日 アルプ=マリティム県ガールに生まれる
1912年10月    ニースの小学校教員養成所(小学師範学校)入学
1914年8月 第一次世界大戦勃発
1915年 4月    召集される
1917年 春 ノルド戦線で連合軍攻撃失敗
1917年10月    第一次世界大戦激戦地のシェマン・デ・ダムで重傷を負う
1920年 1月    アルプ=マリティム県バール=シュール=ルーの小学校教師に着任
1920年11月 アンドレ=ロワール県トゥールで社会主義者共産主義者とが分裂
1922年 8月    ドイツ・ハンブルグの諸学校視察旅行
1922年10月 イタリアでムッソリーニが権力掌握
1923年 8月    スイスで開かれた新教育会議に参加
1924年 1月 レーニン死去。スターリンがソヴィエト社会主義連邦共和国の指導者となる
1924年10月    フレネ、教室に印刷機を導入
1925年 7月    ソ連への旅行に参加
1926年10月    「学校に印刷機を」の運動を開始
1927年 8月    トゥールで「学校に印刷機を」運動の第一回会議
1928年 8月    世俗教育協同組合(CEL)創設
1928年10月    サン=ポール=ド=ヴァンスの小学校教師に任ぜられる
1932年 2月    BT双書の誕生
1932年12月    フレネ攻撃の策動が始まる
1933年 1月 ヒットラーがドイツで権力の座につく
1933年 4月    サン=ポール校の前で暴力事件 フレネ、解雇される
1934年 2月 パリで極右の暴動 左派、危機に陥る
1935年10月    フレネ、ヴォンスに小学校を開設する
1936年 6月 フランスに人民戦線政府樹立
1936年7月 フランコ将軍武力蜂起、スペインの内乱
1937年、1938年  フレネ、スペイン人の子どもの難民を受け入れる
1939年 9月 第二次世界大戦布告
1940年 3月    フレネ、抗独レジスタンス容疑者として監禁
1940年 6月 ペタン、ド・ゴールを排除する休戦条約調印
1941年10月    フレネ、収容所から釈放され、ヴァォアーズに身柄を置く
1944年春     フレネ、オートザルプ県のマキに再結集
1944年8月     フレネ、オートザルプ県ガップのドイツからの解放県委員会に参加
1945年10月    フレネ学校の再開、CEL協同組合の推進
1947年春     現代学校協同研究所(ICEM)創設
1947年12月 CGT(労働総同盟)中央、コミュニスト非コミュニストに分裂
1949年春     映画「緑の学校」封切り
1950年 5月    コミュニストによる最初のフレネ攻撃
1957年 4月    現代学校運動国際連盟(FIMEM)の創設
1966年10月 8日 フレネ、ヴォンスにて死去、ガールに埋葬される

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フレネ学校財政危機に陥るも、ジョスパン首相時代に教育法(ジョスパン法)制定と共に国立に移管され、教育法の実験校の性格を持つ。
○1996年セレスタン・フレネ生誕100周年