目白初講義

 昨日は「道徳教育の研究A」の第1回講義。指定教室に行くとびっしり立ち見状態。150人は超えている。「ぼくがとても人気ある・・・てなことは絶対にありえませんよねぇ。なんたって必須授業だし、同一授業科目は明日一コマだけだしね。どうしようか、このままで行きますか、それとも空き教室を探して貰いますか。」座っている学生からも立っている学生からも反応は全くなし。これだからなぁ・・・ぶつぶつ・・・後付的文句は文字化して脅迫的に述べるけれど、今を解決する問題提起はしようとしない、あなたまかせ・・ぶつぶつ・・・。教務に連絡を取り250人教室に変更。縦長教室だから、左目やや白内障のぼくには、後ろが翳んで見えます。横長教室よりは遙かに上品だけど。
 「シラバスで授業内容を確認します、そしてそれを手がかりにして授業ガイドをします、シラバス冊子を出して下さい。」・・・圧倒的多数の学生がシラバスは読んでもいない持ってもいない、時間割だけでこの教室に足を運んでいる実態。にもかかわらず授業評価では「シラバス通り授業をしていますか」と問う項目がある。回答は「していない」。どうやって判断するんだね。ここにもやっぱり、後付的文句言い、つまり絵空事強迫精神がある。どんどんひどくなっているよなあ、そしてなりもしない職業専門性の単位を取る、曰く、「保険です」。「保険」なら多額に金品を払いなさい。おら、イヤ、我が教職課程は授業料は取っておりません。「保険」ではなく、「ただ乗り」ってやつね。あ、話が違うね。
 どこの大学でも、シラバスに「どのような教科書を用いて授業を進めるか」を記述する項目がある。教育(学)を専門とするぼくにはとても気障りな項目である。しかしこの現実に抗うことはもはや不可能。占領下に置かれたような精神状況である。だが、これを「学習材」にしない手はない、なんたって中学校「道徳」を対象化したこの授業なのだから。あらかじめ、広辞苑で字義を調べておいた。面白い。第二版は小、中、高、等の「教科用図書」(法律用語)だけが辞義となっているが、第六版は「学習に供される材」旨と「教科用図書」旨との二通りとなっている。おお、時代はやはり習俗の侵略状況下にあるのだな。
 来週以降の予行演習。ペア・ディスカッション、「中学校の道徳の時間、教科書を使っていたかどうか。使っていたとしたらどのようなものであったのか。」をテーマに。ペアを組もうともしない、組むことができない者10数名の他、「固まっていて何もしない連中」(某学生談)「イヌネコ団子集団」(某氏談)の一角から、ディスカッションを開始してものの2分も経たない内に「先生、試験はどうなるの?」と声が上がる。やっぱりなぁ、こいつ等、学習課題と向き合うという生物的習慣、イヤ、環境適応能力さえないんだわ。かつての学生・ぼくと一緒だけどな、かわいくはない。一喝。
 ・・・とまあ、ぼくの内的葛藤とは裏腹に、「とてもとても静かな、穏やかな授業でした。びっくりしたほどです。」(某々複数学生談)な、第一回でした。
 そしてとても嬉しいこと。ぼくが聴覚障害(難聴)であるため学生との音声コミュニケーションがかなり困難、しかし、授業は「演習」であると定められているから、この大人数であっても学生の声の交流は活発にやりたい、誰か聴覚補助をしてくれないだろうか、と率直に訴え出たら、授業終了後男子学生が簡単なテイクノートを持ってきてくれた。「ありがとう。でも、ぼくは自分のしゃべったことは頭の中に入っているので、来週からはこれはいいから、学生の発言の記録をお願いできませんか。」と返答。「ああ、そうか。いいですよ。」との返事。渡された紙片を見ると誤字がいっぱい・・・!!!うーん。その後手話サークルに所属するという女子学生が来週から発言を拾って即応的にぼくに提示してくれると申し出てくれた。ありがたいですね。昨年まではなかったこと。
 今日木曜日3限の「道徳教育の研究B」の授業ではどのようなことが起こるかな。
 新年度自主ゼミ、第1回。方針と内容を定める。当面は本谷実践を学ぶ。最初は実践記録を各自読む、それを持ち寄ってディスカッションが再来週、それ次第で本谷さんをお招きして学習会と夕食会。隔週水曜日6限。自主ゼミの広報を行う。2名の学生が様子見にやってきた。定着するかな?