(旧作)包丁一本、パリに住む

 仕事で旅をする機会が多くある。知人などから、いいな、その土地のおいしいお酒とおいしいものをたらふく食べられて、などと言われる。ぼくは好んで酒を飲むことはない。仕事先の世話で宿泊する場合はたいてい食事が出る、その土地の旅館が多いので、なるほど、おいしいものをたらふくいただくことができる。だけど、「その土地のもの」というのは別料金仕立てになっていることが多いので、結局、どこの土地でも同じ、刺身に始まる、魚の煮付け、野菜の煮物等々となる。自分で宿を取る場合には、たいていビジネスホテルで、食事は、まさにその土地の店々に出かけ、調理をしなくてもすむ「その土地のもの」を購入し、急きょ食卓に代用されるベッドに並べていただくことが常である。これは海外に出かけるときも同じ。要するに、あまり食堂・レストランなどで外食することはなかった。
 このことが幸いしてか、パリに居を構えて滞在するようになっても、よほどのことがない限り、外食することはない。通常の旅と異なるのは、キッチンに入って、がたがたと調理することだろうか。一人で食べるのは味気なさを感じることが多いが、調理をしている時には、むしろ楽しみを感じる。
 ぼくの住むところには、魚屋、八百屋、肉屋という個人商店はなく、フランプリというスーパーマーケット、それに店先に野菜・果物を並べてはいるが中に入ると食料・生活雑貨が並べられている小さな商店があるだけである。フランプリはフランス各地にあるスーパーだが、チェーン店なのだろう。こちらは夜7時半にはしまってしまうが、個人商店の方は深夜まで開いている。じつに働き者の一家で、小学4年生の女の子が、ときどき店先に出ている。ぼくがこれらの店を利用するのは、どちらかというと生活雑貨が入りようになったときで、食料品を購入することはほんの稀である。
 子どもの頃、畑で多種多様な農作物を作っていた、鶏やウサギを飼っていた、近くはないが海に出かけて魚を漁ったり貝を刈ったりしていた。もちろんそれらは、日常の食料となるわけである。このような生活経験を持っていると、食料品などは、なるべく自然な形のものを良しとする習慣となって現れる。パリ市内のどこかで毎日開かれている朝市(マルシェ)などは、ブリュターニュ地方でとれる農作物、魚肉類を、元の形に近いまま市まで運んできて、店の奥の方で葉っぱをとったり、解体したり、ぶつ切りにしたりしている。中には、まるでそれを売り物にしているごとく、たとえば、泥つき・葉っぱ付の人参の束、中型マグロ一匹丸ごと、豚の頭部丸ごとなどが並べられ(頭部以外の部分は店の奥の方で吊されている)、客の注文に応じて、適宜切り分けている。だいたい量り売りであり、値段の表示はキロあたりとなっているが、もちろんグラム単位で購入することができる。スーパーのように、奥の作業が見えないものに対する不安・不審を抱く必要がないわけであり、不必要な量を買わなければならないパックものに対する不信を持つ必要もない。
 そういうわけで、ぼくは、近くの通りで毎日曜日に開かれる市の愛用者である。いくつかの店のムッシュ・マダムとも懇意になった。また、市には、利用者を相手にしたさまざまな個人・団体が、それぞれの目的として、チラシを配ったり、音楽を奏でたり、物乞いをしたり、署名を求めたりしている。それらの人々の中で、自然と会話ができるようになっていく。そうした賑わいと接することができるのも、町中のスーパーとは違う姿である。
 市に出かけるときは一週間ないしは二週間の食料品の調達であるから、大変ないでたちである。買い物をすべて終えると、背中と前にリュックを背負い・抱えて帰るのだから。衝動買いをすることもあるが、基本的には計画的である。スープを主体としたフランス田舎風料理で一週間を過ごした翌週は、日本風に煮物・焼き物が主体となる。スープを作るのに必要な野菜(トマトベースにすることが多い)類と日本風料理の野菜類とを変えて調理をすれば、なかなか贅沢な食生活気分となる。スープの時のメインディッシュは豚・鳥・ラパンなど。半年ほど前から狂牛病が騒がれているので、用心して、市では牛肉は購入しないようにしている。どうしても牛肉が食べたくなったら自然食品店に出かけて購入する。肉類の調理は、赤ワインにつけ込んで焼いたり、煮たりすることもあるが、あっさりと塩・胡椒を擦り込んで寝かしておいたものをオリーブオイルで焼くのが手軽である。あるいは日本風に、ニンニクを細かく切り刻んだのを味噌と混ぜ合わせ、それを肉にからませて少し寝かせる。日本酒などは高価なのでワイン、オリーブオイルでニンニク味噌を柔らかくすれば肉にからめやすくなる。日本風料理のメインディッシュはマグロ刺身・煮付け、イカのショウガ醤油つけ込み姿焼き、鰺の塩焼きが常用食。もちろん、これらは、日替わりでいただくのである。
 時には珍しいものをというので、山積みにされてハサミを動かしているカニを買う。茹であげて、トンカチで殻を割り(とにかく固い)、レモンの搾り汁を付けていただく。ほんの少し醤油を落として、味を変えてみると、飽きが来ないで食べられる。先日はウニを売っていたのでついつい手が出てしまった。棘の殻を破ると潮の匂いがぷーんと漂い、大陸の真ん中にいることを忘れてしまう。ムール貝などは、1キロ買ったらとても一人では食べきれない量。ニンニク、トマトを細かく刻み、よく水洗いしたムール貝を大きい鍋に入れ、白ワインをかけて、あとは火にかけるだけ。これほどおいしい貝料理があったのかと思うほどのおいしさに仕上がる。
 これからは、パリは牡蠣がおいしい季節だといわれる。大小殻付の牡蠣が店先に山積みされている光景に、思わず、食べる前に空舌鼓を打ってしまう。さあて、殻をとって生のままいただきますか、それとも、殻のまま焼いて、潮の匂いを楽しみますか。火力があまり強くない電熱なので、フライものになかなか挑戦する気持ちにならなかったけれど、牡蠣とくればまた別。日本風の太くて大きな白大根が入手できることが分かったので、鍋料理へとも心が傾斜する。一人ではあまりにもわびしい。近づいてきている誕生日に、日頃何かとお世話になっている日本からの留学生数人を呼んで牡蠣鍋パーティーも悪くない。こちらで知り合ったフランス人の二人のムッシュに「日本食へのお誘い」のメッセージを送ることも、楽しそうだ。
 「外食ばかりで栄養が偏っていませんか」などという心配のはがきを知人からいただいたときは、思わず苦笑した。人生でこれほど調理をした経験など、まずないほどに、こと食事に関しては、ほぼ手作りである。「日本食が恋しいでしょう」などというはがきも届くが、どっこい、充分に、いや十二分に間に合っている。ダシを取る煮干しにはまだお目にかかってないけれど、味噌、醤油に始まり、それはもう、ぼくが作るには充分に間に合うものが売られている。自然食品店に行けば、たいてい、日本食材を購入することができるのだ。どうしてもそこで間に合わない米酢などは、日本で買う2倍から3倍のお金を支払って日本食材店で購入する。が、気をつけないと、すでに賞味期限切れのラベルの上に、新しい賞味期限がフランス語で書かれたラベルが貼られている。人の足下を見る商売とはこのようなことを言うのだ。商品をよくよく確かめて買うこと、という当たり前の購買モラルを武器としたいものだ。ぼくは、自然食品店で、フランスで作られたと表示されている、日本からの輸入物の約半分の値段のものを購入することにしているのだが。
 自然食材店で売られている日本の食材では、 miso(味噌)、shiitake(椎茸)、kaki(柿)、 wakame(ワカメ)、konbu(昆布)、tofu(豆腐)など、ローマ字で表記されており、これらは日本語がフランス語に転じているだろうかと考えてしまう食品も少なくないのだ。お米は、何も日本食品店に行って高い「あきたこまち」などを購入しなくても、イタリア米がじつにおいしい。自然食品店では、1キロ400円もしないで、玄米、胚芽米、五分つき米、白米、選り取り見取である。ぼくは五分つき米と白米を混ぜ合わせて、お米を炊いている。
 さあて、きょうはどんなものをいただくことにしよう。
 冷蔵庫・冷凍庫、野菜保存庫には、こんなものが入っている。
 魚肉類として、豚の骨付きもも肉(一食分に切り分けて、別々に保存してある)、衝動買いしたダッグの背肉の赤ワイン漬け(これも自分で解体し、切り分けた)、もちろん魅力的な色をしたその皮、ゆで小エビ(もちろん自分でゆで、保存してある)、それと鰺2匹。野菜類には、大根、トマト、タマネギ、人参、ジャガイモ、キャベツ、キュウリ、クルジェット、茄子、その他ニンニク、ショウガ。デザート用にはリンゴ、柿、マンゴー、それに生栗。いろいろと取り合わせれば、けっこう面白い料理ができそうだ。
 それにしても、フランス語にはじき飛ばされてしまって、きょうは、妙に日本が恋しい。こんな日には、あっさりとした日本料理に限る。
 決定。
 鰺塩焼き。ふろふき大根、焼き茄子(ショウガ醤油)、白米のみのご飯、そして人参とクルジェットのみそ汁。もちろんダシは、日本から持ってきて大切に使ってきた煮干しで取ることにしよう。そしてデザートにはゆで栗。
 朝から準備したラパンスープは明日いただくことにする。
<2000年秋の作品に若干手を入れた。>