「白痴」=「重度知的障害」にあらず

 ぼくは「重度知的障害」という言葉を使用することを好まない。「知能指数」を指標として人間を類別することに強い違和感を抱く、「学校」が「人格形成の場」であるというのなら。以下は、拙著『知的障害<イディオ>教育の開拓者セガン―孤立から社会化への探究』(新日本出版社、2010年)の刊行前の原題『イディオ教育の開拓者セガンの半生』―要するに拙著の元原稿―の「序文」の一節。これは拙著に収めなかった。
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 人間の子どもとして生れ落ちた人びとの中で、人間として扱われず、育てられず、ある者は闇に葬られ(抹殺)、ある者は社会の外に棄てられ(遺棄、隔離)、ある者は生涯を<囲いの中>で過ごさせられていた(幽閉)、それらの人群れの中に、<はくち>と呼ばれる人たちがいた。
 <はくち>はもともと和語ではない。漢語で白癡としてきた。我が国の文献ではすでに8世紀に初出を見る。「白」(「明確な」)と「癡」(「おろか」)の合字である。何を以て「おろか」とするかは共同体(社会)のあり方と関わってくる。つまり、共同体性に同化することから距離が遠くある人の特性を示す。したがって、白癡は、もっとも(=「白」)同化距離から遠くに存在する社会性(「癡」)、とみなされる。古代国家以来近代に至るまで、むしろ白癡は、同化社会における異化的存在(同化不能的存在)としてみなされ続けてきた。このように、漢字文化としての白癡(白痴)は異文化的存在である状態とその人という二重の意味を持つ。
 ヨーロッパ語、とりわけフランス語で<はくち>はどのように表され、どのような処遇がなされてきたのであろうか。
 <はくち>は、今日、一般に、idiotie(イディオティ)、idiot(イディオ)と表現されている。ともに医学用語として常用されており、前者は症状を、後者は人を表す。これらの主たる語源はidiôtês(ギリシャ語)、idiôta(ラテン語)である。ギリシャ語では公人に対する概念としての私人を指し、ラテン語では内部者に対する外部者を指す。古来、さまざまな定義や概念が提出されてきているが、やはり漢語文化と同じく、同化社会における異化的存在(同化不能的存在)であることを示す状態でありその人のことであると言える。
 いずれにしても、直截に言えば、特定の同化社会にとって大変扱いに困る状態であり人であるということであったのだろう。そういう状態や人は、歴史過程で言えば、白痴だけではなかった。同化社会(コミュニティー、共同体)の変容とともに多くは同化可能とみなされるようになったが、白痴は近代初頭まで同化不能であると処遇されてきた。