カタコンブ光景〜再話・祈りを捧げむ

カタコンブ

 まるで埴輪のように思われる右の写真。写真手前にある柱に皿を乗せたような黒い影は燭台。額のように囲っている影は斎場への門。そうです、ここは死者を祭る敬虔な場所なのです。今回はこの斎場にまつわるエッセイです。
 パリは石の街。もちろん近代建築法の建物も増え続けているので、やがて石積みは姿を消していくのであろうか。ローマ遺跡、中世建築物がここかしこに残っている様子を眺めると、どれほどに堅牢に作られたのかと感心もする。岩波文庫『ある出稼石工の回想』を読んで以来、長い間疑問を持ち続けていた。フランス・リムーザン地方はパリの石工を長く独占してきた。同書の著者は19世紀の人。 30代半ば (1849年) で立法議会議員となっている。『粟を食う奴ら』と蔑視された出稼石工に対する興味も大いにあるが、何よりも、彼らが生業とした石工という職業の対象の石。さて、これらはいずこからやってきたのであろうか。
 パリの街の下は大きな空洞である。天然自然にできた空洞ではない。2000年もの長い間掘り続けられてできた空洞。地下に埋蔵されている石灰石を掘った採石場と坑道とでできたものである。パリの地下の石灰石は空気に触れると硬くなるという性質を持っているため良質であるという。もちろん良質でない石灰石もあるだろうが、そこは建築主の財政状況によって使用される石灰石が異なったであろうことは推測に難くない。パリの地下を総計350キロメートルの坑道が走っているというから、街の下が大きな空洞であるというのもあながち誇張された表現ではないのである。私がフランスではじめて手にした『パリの地下』という書物の図版は露天掘りと人力のクレーン車を詳細に載せていた。人力のクレーン車というのは、大きな車輪に裸の男性が腹ばいになって乗り、車輪の上を動くとその動力で採掘された巨石が地上まで持ち上げられるというものである。ローマ帝国時代の奴隷労働のひとつである。石工は地下であるいは地上で、あるいは建築作業場で、使用目的に合わせて石を割り形を整える。脱線するが、私は、石の上に乗って巨石を曳かせ権力に取り入った加藤清正公にはなんら興味は沸かないが、石を切り出し、石を曳き、石を加工し、石を積み上げたそれぞれの人々に限りない愛着を覚えるのである。

「残し柱」
 ところで、地下に点在する採石場(その跡地を含む)はさまざまに利活用されてきた。犯罪者の巣窟、政治犯の地下組織などに始まり、戦争中の防空壕、軍司令部。現在では核シェルターも作られていると聞く。だが、ダンフェール=ロシュローを入り口とするカタコンブほどに敬虔かつ尊厳さを保つところはないであろう。坑道の天井を支えるために石を切り出さずに残した柱は『残し柱』といわれ最も古い採掘方法であるが、その『残し柱』を残しているカタコンブの採石場は、1ヘクタールの広さにおよそ600万柱の人骨が納骨されている。世界一大規模な納骨堂である。写真の白くて丸い縦横の列が頭骸骨、ほかは大腿骨等である。これが延々と続き、広がっている。カタコンブに地下納骨堂が作られたのは1787年から1814年にかけてであり、パリ中の墓所からここに集められた。つまり納骨堂建設が開始されたのはフランス革命期のことである。パリの街は教会によって区分されている(教区という)が、カタコンブも、その広大さゆえか、三つの教区に聖別されている。なぜこのようなことがなされたのか、これもまた、興味津々たるところである。

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 エッセイ3編、「川口幸宏随想集・玄冬記」にアップ