(旧作より)希望−エスペランス

 小雨に煙るある日、ぼくは心を躍らせてパリ地下鉄5号線に乗った。目的駅はCorvisartコルヴィザール。所用地はAmis de La Commune de Paris 1871(アミ・ドゥ・ラ・コミュヌ・ドゥ・パリ1871)である。日本風に言えば「1871年パリ・コミューンの友」であろうか。
 駅前を走るのはBoulevard Auguste Blanqui(ブルヴァル・オーギュスト・ブランキオーギュスト・ブランキ通り)。ブランキは、革命史、労働運動史などをかじれば必ず出てくる名前である。ブランキは自身が闘争的革命家で76歳で死亡するが、その人生のほぼ半分を獄中で過ごしている。牢獄を出たり入ったりの繰り返しで、彼にとって政府によって身柄を拘束されることは、次の革命へのエネルギーを蓄え、高めることにしか過ぎなかった。
 社会革命と言えばぼくなどはせいぜいマルクスレーニン毛沢東止まりの学び方しかしてこなかった(それとて、小・中・高の学校教育で教わった記憶はまったくない)が、それは「革命」を「社会悪」としてしか扱おうとしてこなかった日本的共同体主義社会、そしてその論理を基盤にした西欧近代主義の断片的知識を与えることを旨としてきた学校主義社会にどっぷり浸かってきたせいであろう。パリで住まい、生粋のフランス人と交流するようになると、そのぼくの精神形成史がいかに日本的であるかということを思い知らされるのである。「パリ・コミューンの研究?それは素晴らしい。あれはコミュニストの運動で、私はその立場には反対だが、大いに研究され、学ばれる必要がある。なぜなら、社会の発展、個人の成長にとって、異なる立場、異なる生き方があることはすばらしいことだ。もちろん私は、異なる立場に転身することはないけれど。」と何度言われたことだろう。たとえば、大塩平八郎の乱自由民権運動(高知、埼玉などの)、大正デモクラシー(水平社運動・婦人運動・学生運動などの)、昭和前期の労働運動・社会運動・教育運動を学ぼうとし、教えようとすれば、必ず「偏向教育」の烙印が押される。
 「知らしむべからず、寄らしむべし」という近代以前の衆愚政策そのままに、教育の中立性とは行政の論理に乗っかることでしかない我が国に比べ、フランスの学校現場では、フランス革命1830年7月革命、1848年2月革命、パリ・コミューンなど、いわゆる社会変革に関わることは教えられるし、そのための資料・機関も整えられている。だから、フランスの中等教育を終えた市民ならば、フランス革命やその後の数々の社会革命を知らない人はいないはずであるし、それを教えられたからと言って、それらの人たちがすべて「革命」支持の立場に立つわけではない。無知がなせる「反革命」(あるいは「体制推進」)と教養がなせる「反革命」(あるいは「体制推進」)と、どちらが自立した人間であるか、一目瞭然であろう。市民社会とは、間違いなく教養に裏付けられた自立した個人の自治的社会のことである。
今回の「パリ・コミューンの友」訪問の目的は、そうしたフランスにおける自立した個人形成のプログラムを具体的にしたパリ・コミューンについて、できれば資料的確認を、できなくともそのプログラム具体化のプロセスについて、情報を得るためであった。目の前を走るブランキ大通りの名を「発見」しても、ルイズ・ミシェル駅ならびにルイズ・ミシェル通りに立ったときほどの驚きと感激がわき起こってこなかったのは、ぼくが、パリという街づくりの思想と哲学について、ある程度理解し、慣れてきているからであろう。
 ブランキ大通りの向かい側に小高い公園があり、階段がついている。それを登って公園を通り抜ければ「パリ・コミューンの友」の事務所のある通りに出ると聞いていた。公園の側に立っている碑文を読むと、このあたりはButte aux Cailles(ビュット・オー・カーイユ<ウズラの丘>)だということだ。パリ・コミューンに馴染みのある名前である。100数十年続いている名前といえば、我が国では驚くに値するだろうが、ヨーロッパではさほど希有なことではない。公園を抜けて通りに出ると、古い映画に出てきそうな風景と出会った。三角形の広場のまわりに建っている建物は、装飾といい、パネルといい、現代にはとても見ることのできない様相を示している。広場とは言っても、その真ん中を道が走っているのだが、すべて石畳。そして道の側に建っている街灯はガス灯(もちろん疑似)である。ガス灯のすぐ近くに、パリ市内のいたるところで見られる歴史案内板が建っていた。それを読もうと近づき、ふと頭上を見ると、PLACE de LA COMMUNE DE PARIS 1871という道路標識が目に入った。何と、パリ・コミューンの名前を付けた広場なのだ。いわば、「秩父民権広場」という名前を公共の広場に発見したようなものだ。ぼくが渡仏前に買ったフランス・パリ地図(フランスで発行されたもの)ではこの名前を索引で見つけることができなかったから、最近付けられたのだろうか。それにしても街づくりがまさに名前とぴったり合っている。
 この疑問は「パリ・コミューンの友の会」事務所に行って氷解した。所用目的のために数時間、ボランティアの専門家からお話を伺い、ほとんどぼくがこちらで調べたこと以上には出なかったので、教育に関わって研究をしているボランティアとのランデブーの日程調整をしてもらったあと、どうせなら「パリ・コミューンの友の会」に入会しようと思い立った。手続きを終えて機関紙の最新号をもらったので、パラパラとページをめくっていたら、「ついに、パリ・コミューン広場の実現を見ました、ビュット・オー・カーイユ通りとエスペランス=希望=通りの角に。」という記事が目に入った。訊ねてみると、1999年7月12日のパリ・ディナー市議会で決定したとのこと。その決定を受け、市・13区ならびに地元の財政的な協力の下に、広場を含めたその空間の景観を当時そのままに再現する工事が行われたということであった。
 パリ・コミューンに関わった人たちがつねに口にしていた言葉、l'Espélance=希望。やがてこの言葉を名に冠した世界的言語運動、すなわちエスペラント語の誕生とその運動が誕生する。我が国では宮沢賢治がその代表的な使用者だが、ぼくの直接の研究対象であるセレスタン・フレネもまた、エスペラント語運動に深く関わっていた。そして今も、フレネ教育運動の中で、国際的に広がっている学校間通信の共通言語として、エスペラント語を使用している学校が少なくない。「希望」。歴史の中に深く根ざしているこの言葉を胸に刻んで、ぼくは歴史の中に生き、今を生きていきたいと、改めて決意した一日であった。(2000年作)