遅刻

 5限の教育基礎D、西5―201という大人数教室。満杯になれば約300人が入る。その分の資料を抱えて教室に入ったのが授業開始8分前。いつもは、学生たちが入ってくる姿を眺めながら授業のモチベーションを高める。カッコづけて言えば「健康観察」。え?他人様の健康観察じゃなく、自分の健康観察をしなさい、って?ほっといて下さい、そんなこと、ここでは。
 出入り口に時々目をやりながら、配付する資料3点の束を選り分けし、授業進行に支障を来さない配慮をする。・・・ない。肝心のテキスト「教育基礎資料集」がない。前回の授業で「テキストを持ってきていない者は授業を受けることはできません」と強い口調で通告した。そうだとすれば、ぼくは授業をすることができないことになる。そうなれば、ぼくが学生だったら大喜びだが、残念ながらぼくは教師。1回たりとも授業回数を無駄にすることが許されないご時世故、テキストを研究室に取りに戻るしかあるまい。あと5分で始業のベルが鳴る・・・。
 「何だって連休明けだってのに、こんなに学生がいるんだ。5月病に縁がないんだな、今の連中。まったく、急いでいるのに、チンタラチンタラ廊下を団子になって歩くんじゃない。」等と胸中でぼやきながら、急ぐ、急ぐ。外は雨。傘は教室に置いてきたから、濡れていこう、ホトトギス・・・。スレンダー美人がすっとぼくの所に寄ってきて、「雨に濡れておられますから、傘にお入り下さい。」ありがとう、涙が出るほど嬉しいよ、今じゃなければね。今は、ほっといてくれ、ホトトギス、と胸中でぼやき、傘に入れて貰い、急ぎ足。スレンダーさん、かわいそうに、ピンヒールなのに、走らされる。ごめんなさいね。
 雑居ビル中央教育研究棟の3機あるエレベーターの内1機が、ぼくの目の前で、「点検作業中」の看板が置かれた。とにかくこない、下りてこない、最上階の「国際会議室」の主たちか、それとも、8階から上の法科大学院の主たちか、それとも・・・・。
 ・・・こうして、西5号館2階と中央教育研究棟6階との往復にかかった時間は15分。大都会の中のド田舎のどたばた協奏曲演奏のため、「健康観察」なる教育実践の本質は出来なかったばかりか、学生たちの冷たい視線がぼくの天頂禿にしばらく突き刺さるのに耐えなければならなかった。
 〜〜15年ほど前の出来事。授業であることをすっかり忘れ、研究室で大いびきをかいて寝ていた某人の姿を見た学生―教室で代表に選ばれ、授業をするのかどうなのかを、確かめる使命を帯びた学生―が、「先生はただいまお昼寝中です。」と教室の学生に伝えたら、「起こすべきだ。」「イヤ、休講だ」「そうじゃない、先生はぼくたちを試しているのだ、自主的に学習をしよう」てな調子の話し合いで、大方―約100人―が、その時間を、その教室で過ごした・・・という天国はもう絶対大学で期待できません。