講義と自主ゼミ
昨日の教育基礎Cは日本近世の庶民の識字の問題。ぼくなどが学校で学習した「日本近世」の庶民像は「無知蒙昧」的存在だった。それは史実に近いのか虚妄なのか。平仮名、片仮名、漢字という文字文化などから受けるローマ字文化圏の識者の印象は「ローマ字文化圏でさえ識字率を高めるのに相当苦労している歴史がある。だから・・・」というものであるだろう。第二次世界大戦終了後の米国教育使節団の教育調査の話、ぼく自身の在外生活経験の話などから得た、「外=進んだ文明国と自負している文化圏」から見た日本文化の印象などによってこのことを語るが、あまり学生の反応は見られない。その後、近世の庶民教育の成立過程、質、量的広がりなどを史料に基づいて語る。対比的にこれまで学んできたコメンスキー、ペスタロッチなどを織り込む。「これまでの授業では教育史の偉人を語りましたが、今日はそういった偉人は出てきません、庶民そのものが主人公です。これが日本の近世の輝かしい遺産です。」と。
自主ゼミは、多くの在ゼミ生が所用、風邪等で欠席。一方、新しいメンバーの多くの参加。テキスト学習は中止して、車座になり、語り合う。「自分のこれまでの生き方で肯定的な影響を受けた教育を継承していきながら、どんな教師になりたいか」というのが中心話題になるのは当然だろう。が、ぼく(及び一人の在ゼミ生)は、自分史の中の「学校」に対する嫌悪を語り、だからこそ、そうした「学校」を「壊し」「再構築する」必要を感じる、と語る。「期待と意欲に満ちた明るく未来のある青年像」ぴったりの新しい人と、「新風怒濤期そのままに生きる青年像」ぴったりの古い人と、狭い空間で膝をくっつけあいながら2時間余の時を共有するのは、とても心地よかった。が、これがぼくの独りよがりでなければいいのだけれど。昨日の参加者は、理学部、文学部、経済学部、文教大学からで、計10名。次回は6月7日(水)18時から。「とにもかくにも本谷先生におこしいただいて、実践の話を伺いたい」とは大勢の声。
今日の教育基礎D終了後、一人のお嬢さんが教卓のところに来て、自主ゼミについて参加希望を出してきた。「大歓迎です。」と応えておいた。
夜、本谷宇一先生のご自宅に電話。次回自主ゼミにご足労願い1時間ほどお話をいただくことをご了承いただいた。