セガンの実践の場

 セガン白痴教育のフランス時代の活動の姿、活動の場などは、セガン自身がその代表的な『1846 年著書』に明記している。次のようである。 (同書pp.323-324)
(1)エスキロルの指導を得ながらイタールを模倣した事からセガンの白痴教育の足跡が刻まれることになる。続いて
(2)ピガール通りのアパルトマンというつましい施設で独力での実践、さらには
(3)不治者救済院での実践で子どもたちの成長・発達をなし、そして
(4)ビセートルに舞台を移して白痴教育に取り組む。しかし、それも最終的には罷免されることで、白痴教育の場を失ってしまう。その後は、
(5)かつて教育を取り組んだ子どもの家族からの相談に与った、というのである。
       ★
 (1)と(5)についてはセガンの言辞だけしか当該事の記録を見ることができない。(2)〜(4)は公文書発掘によってセガンの言辞を確認することが出来た。
 そういうことの「到達」さえ確認しないであれこれ言うのが、偉大な研究者なのだろうか?今更のことではあるけれど。
 2003年から2004年にかけて、このことで「ケンカをふっかけた」対象はHS先生だったが、名前を代えてまたぞろ亡霊が出てきた、という気分。
       ★
 ニコニコ ニコニコ  そして胃に穴が開く それでもなおかつ ニコニコ ニコニコ
 オラには無理だべ 2006年2月末パリの目抜き通りで吐下血した過去はもう結構ダス