YT先生、それでもセガンは「サルペトリエール院」で白痴教育を実践したというのでしょうか?

 セガンがフランス時代をどのように過ごしたのか―いわゆる半生史―については、拙著『知的障害(イディオ)教育の開拓者セガン―孤立から社会化への探究』(新日本出版社、2010年)で、伝聞や風説の類ではなく、セガンの著書論文の分析はもとより公文書類、当事史料等の発掘分析、関係場所・機関等の撮影(写真提示)によって、明らかにすることができたと自負しております。
 ところが先生が最近公刊されたご論稿によりますと、私の努力はまったく否定されている実情にあります。研究者の末端の末端にも座する資格のない者とは言え、全精力を傾けて進めてきております立場上、先生のご立論の根拠のほどをお伺いいたしたく、一筆したためさせていただきたく存じます。お目を汚すことになり、まことに恐縮ではございますが、これも研究活動の一環としてご無礼のほどはご寛容下さいますように。
 セガンの誕生からフランスを去るまでお書きになっているところのすべてに疑念を覚えておりお訊ねいたしたいのですが、とりあえずは、セガンが「サルペトリエール院」で白痴教育を行ったという先生の論拠のほど、ご教示賜りますようにお願いいたします。
 次の引用はセガンが1846年に出版した大著原典(フランス国立図書館蔵)からのもので、セガン自身がフランス時代に手がけた白痴教育が順次綴られております。(カッコ書きの数字は実践の順次を示しています。これらは私が付しました)
(pp.323-324)
・・・ Soit que l'on considère ses premiers efforts, cette remise à la fonte des ébauches d'Itard sous la direction d'Esquirol(1), soit que l'on se reporte aux pratiques de l'auteur privé d'appui, travaillant seul avec ses élèves dans son modeste établissement de la rue Pigale(2); soit qu'on le voie poussé par une main dont il ignorait le secret à l'hospice des Incurabfes(3) où un rapport décisif constata les progrès qu'il avait, seul et sans aide, fait accomplir à dix élèves; soit qu'on le suive dans sa pratique publique de Bicêtre(4), placé entre des rivalités acharnées et au milieu d'impossibilités de toute nature; soit enfin qu'on consulte les famille(5) auxquelles il a depuis rendu des enfants, toujours et partout il y a progrès dans les élèves, progrès dans la méthode, et confirmation de ce fait décisif que l'éducation des idiots est désormais possible.
 以上のセガンの原文について検討いたします条件を「サルペトリエール院」だけに限定いたしましたので、それについてお訊ねいたします。セガン自身は自己実践の場として「サルペトリエール院」の文字を、この一文はもとより、この書物全体、さらにはフランス時代の全論述に、一切登場させておりません。なのに、何故に、「サルペトリエール院」で実践したと断定されるのでしょうか。
 実際のところ、この問題は、清水寛編著『セガン 知的障害教育・福祉の源流―研究と大学教育の実践』(全4巻、日本図書センター、2004年)の編集段階で清水寛先生と議論を交わし、「セガンはサルペトリエール院では実践していない」という結論を導き出し、同書に執筆させていただいたセガン年譜、同書グラビアとして作成させていただいた「セガン関係地図」に、明示いたしました。緻密なセガン研究を進めてこられた藤井力夫先生もそのようなお立場をそれ以前から論及しておられます。そして、2010年に公刊いたしました拙著においては、さらなる公文書の発掘に基づく論を展開しました。つまり、セガ研究史という流れからすれば、既に決着済みの問題であるはずです。
 先生は、以上私が論拠とする文献すべてを注記で紹介しておられます。ましてや「最近の研究」成果として位置づけておられます。従って、先生のご論文を読む読者は、それらの文献もまた「セガンはサルペトリエール院で実践をした」と理解することでしょう。しかし、それは、私の研究者生命にかけて、否定しなければなりません。セガンが公的機関で白痴教育を手がけたのはすべで男性の青少年です。「サルペトリエール院」は女子専用の施設です。男女の混合を厳しく禁じていた当時のフランス社会の価値評価にも関わる大きな問題となるはずです。
 ただし例外的に、医学博士ヴォザサンが開いた女子不治者救済院内の「学校」では男女の子どもの治療教育が試みられました。開設条件として「男女が決して触れ合うことのないよう、厳しく管理すること(つまり、両性を同一空間で生活させ、教育をしてはならない)」と条件が付けられております。当然、先生は、このことはご承知のことでしょうけれど。
 なお、セガンが前記原文でIncurableとしている機関名を、我が国の有力なセガン研究者は「サルペトリエールの不治永患者院」とし、あるいは「サルペトリエールの別院」ともしておられましたが、この考えが実際を表したものではないこともまた、すでに明らかにされております。また、フランスのセガン研究者でセガンの実践と「サルペトリエール院」とを直接結びつけて論ずるものはただの一人もおりません。セガンをフランス社会に「復権させた」と言われるかのブルヌヴィルとてそうであります。
 どうか、上記拙論に対する明快なるご批判を賜りますよう、衷心よりお願い申します。